6月20日は世界難民デーである。毎日新聞に「瞳輝くまで」-ブルキナファソ報告-の一環として、北部のゴーデボ難民キャンプの様子が特集記事で紹介されていた。何度かエントリーしてきたが、マリ北部のトゥアレグの人々が難民キャンプに退避してきている。マリの反政府ゲリラの多くがトゥアレグ人であるので、同じトゥアレグ人に対して迫害が起こっているのだ。
トゥアレグの人々は、言うまでもなく遊牧の民である。我々日本人とはおそらく最も異なる価値観をもって生きているとは、今や古典とも言える「アラビア遊牧民」の中で本田勝一が述べている結論部分だが、私も全く同感である。
昔ニューヨークからの帰路のソウル空港で、ニュージーランド人牧師と一神教について語り合った時、「神は戦争を否定していない。」と軽く言ってのけられたことに衝撃を受けたことがある。確かに聖書の話を読んでいると、殺し合いが日常化していることがわかる。
ふと考えると、問題解決の手段として、先進国と呼ばれる国々が、暴力的解決を否と結論付けたのはつい最近、WWⅡ以降の事である。世界史的に見ても日本の戦後60年ほど平和が絶対的命題となっている地域はないのではないかと思ってしまう。
だからこそ、紛争地域を野蛮であるとか、上から目線で難民の人々を見ることは厳に慎まねばならないと私は思っている。
今、マリやブルキナで起こっている難民の人々の苦難は、同じ地球上に共生する地球市民として見逃せない。たが、彼らの事を憐れむのは違うのではないかと思うのだ。深く理解することと、同情することは違うと私は思う。生徒には、その辺の違いをなんとか伝えたい。
http://www.unhcr.org/cgi-bin/texis/vtx/page?page=49e483de6&submit=GO
2013年6月20日木曜日
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