2024年11月3日日曜日

デリダの「ウプントゥ」批判

久しぶりに「アフリカ哲学全史」(河野哲也著/ちくま新書)の書評。第10章にあるマンデラの「ウプントゥ」に対するデリダの批判について記しておきたい。フランスの高名な現代哲学者が、アパルトヘイト後の真実和解委員会をキリスト教に偏向しているのではないかと批判したのである。

確かに真実和解委員会の議長は、聖公会(=英国国教会)の聖職者・ツツだったし、当初祈りや讃美歌などの儀式も行っていたようだが、徐々に払拭されていったし、教会とは無関係であった。マンデラ自身はメソジスト系の学校で教育を受けているが、ウプントゥと対比して低い評価を与えている。デリダのキリスト教偏向という批判には、ある程度妥当性があるとはいえ、ウプントゥを「和解」の同義語をして翻訳されている以上、間違っているといえよう。デリダは、アパルトヘイト廃止以前から存在していたウプントゥの哲学的倫理学的論考を自著の中で参照した跡がなく、あれほど言葉の使用に厳しく、レトリックを華麗に駆使する哲学者らしからぬ、軽々しさを感じると著者は記している。ちなみに、このデリダの著作は『世紀と赦し』(1999)で、リクールに批判され議論となり、『赦すこと:赦し得ぬものと時効にかかり得ぬもの』(本日の画像参照)において、「赦しはただ赦され得ぬものを赦す」ことと定式化している。

ウプントゥの考えが、和解や修復的司法に親近性を持つのは、アフリカの伝統的村落社会の紛争の解決がそれに近いからである。ここで、アフリカ文化人類学者として私が尊敬する松田素二先生の指摘が登場する。松田先生は、アフリカの紛争解決には2つの原則があるとされ、第1の原則は「癒しと共生」の原則で、処罰ではなく、加害者受容を優先する点。加害者個人に罪を帰責せずに共同体に最受容するための社会的手続きに創意工夫を凝らすこと。第2の原則は、真実の複数性の原則で、物証に支えられた唯一の真実よりも和解の追求を優先する。交渉折衝によって変異する真実に基づく集合的判定を重視すること、である。この指摘は、真実和解委員会に見られ、またマンデラやツツの発言の随所に見られる。

修復的司法は、現在80ほどの国で何らかのカタチで実施されているが、先住民族や多民族問題をかかえた国である。ユダヤ人であるデリダは、赦しをめぐるアブラハム的なモデル(ユダヤ的)に対して、キリスト教的モデルを優位に立たせようとするものだ、と批判した。デリダは、真実和解委員会の和解の過程は、ヘーゲル的な亡霊(西洋化・キリスト教化・白人化によってアフリカ人は解放に至るという予言)に従ってしまっているのではないかと示唆している。著者は、あくまでユダヤ人のスタンスから論じているとしている。デリダは、自分の一方的な視点からマンデラやツツ、そしてアフリカ哲学を解釈し、ユダヤ教対キリスト教の図式に当てはめたに過ぎないと批判的である。…なるほどと私も思う。

ちなみに、ユダヤ人哲学者つながりで、アーレントの議論も記されている。赦しは復讐の対局にあり、赦し得ないものには赦しの議論から外される。復讐の念を持ち続けるべき対象を罰したり赦したりすることで、その念を終わらせるわけにはいかない、と「人間に条件」第5章に書かれている。また日記(1950年6月)には、「許しと和解は根本的に異なる行為である。赦しは一方的であり、垂直な関係として成りたち、平等を破壊する。これは人間的な関わりの根底を破壊する。和解は水平的であり、その平等性を再建しうる。(要約)」とも書いている。

…私は、アーレントよりデリダのほうが好みなのだが、両者とも西洋哲学の基盤の上で議論しているのはは明白である。こうしてアフリカ哲学を学んでいるとだんだん、西洋哲学に嫌気が差してくる。(笑)

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