https://www.j-cast.com/2018/07/06332615.html |
井伊直弼は、藩主・直中の庶子で十四男。32歳まで300俵の部屋住みであった。(ちなみに土佐の山内容堂も分家の部屋住みで、両者ともに極めてラッキーな経過で藩主の座についている。)この井伊直弼の国学の師となったのが、長野主膳であるが、清河八郎なみ、いやそれ以上に胡散臭い人物である。そもそも出自もの不明。自らの美男子ぶりと和歌の指導と国学で成り上がった人物なのである。
埋木舎(うもれぎのや)と名付けた邸宅でくさっていた直弼を3日に渡って、藩主になる可能性を語り、激励し、師弟関係を結んだらしい。直弼が藩主となってからは、藩校の国学方に取り立てられる。彦根藩は大老になれる家柄で、主膳は次にそれを目指す。ちょうど将軍後継問題と条約締結で揺れていたが、主膳は紀州藩と結んで、直弼を大老に押し上げることに成功した。井伊直弼自身も、山内容堂同様に才ある人物であった。こんな記述がある。「大名になって、溜間詰めになってみると、同輩の大名らはいずれも大した者はいない。大抵が普通社会に出すなら中以下の人物だ。」
しかし、そもそもが野心(幕府を動かすほどの出世を望んでいた可能性もある、と海音寺は推測している。)の塊のような男故に、直弼に一橋派や京で朝廷を動かそうとしていた尊王攘夷派への処罰を進言した。朝廷から水戸藩への密勅の件で、様々に暗躍し、関係者を脅している。梅田雲浜の捕縛に始まる安政の大獄を陰で動かした。直弼も、大老という地位を利用して江戸で傲慢にやりすぎたことは確か。結局桜田門外で殺られるのだが、長野主膳も次の代になってから、士分も取り上げられ斬首されている。そのおかげで、彦根藩はすんなりと新政府側につくことになった。
この2人の師弟コンビの野心、わからぬでもない。身分に縛られた封建制度を親の仇と言った福沢諭吉のごとき凄みさえ感じる。この長野主膳、なんとなく、現代の竹中平蔵氏を連想してしまう。
0 件のコメント:
コメントを投稿