マサダ砦 https://yascovicci.exblog.jp/6161017/ |
一神教同士の排他性に関して、著者は面白い比喩を提示している。ダイヤモンドを持っているA・B両人が私のは10カラットだと言っても問題はない。貴重なものだが世界に1つしかないものではない。だが、ダビンチの「最後の晩餐」をC・D両人が持っていると主張した場合、どちらかが嘘をついており、ここに唯一神が介入することで、絶対的な概念(自分が善、他者が悪)に変化する。ダンテの神曲「地獄編」には、ムハンマドとアリーが登場する。「不和・分離の種をまいた罪」を犯した者が落ちる地獄である。この神曲はキリスト教世界では最高峰の文学とされているが、イスラム教世界は禁書にされている国もあるとのこと。
本書では、第1次ユダヤ戦争の話が詳しく語られているが、「マサダ砦における集団自決」について記しておきたい。ローマ軍に包囲されたリーダーのエルアザルは、集団自殺を呼びかける。くじ引きで10人の男が殺し役に選ばれ、(1人の老女と1人の母親5人の子供は洞窟に隠れていて難を逃れたが、それ以外)の約1000人を殺害し、残った10人も相互にくじを引き選ばれたものが殺され、最後の一人が自決したという。キリスト教徒は、自殺を大罪と捉える。しかし、「旧約聖書」「新約聖書」には自殺を禁じた文言はない。(クルアーンにはアッラーの言葉としてちゃんとある。)アウグスティヌスは、4つの理由を上げて否定している。第1に自分を殺すことは他人を殺すことと同じで「十戒」にあるとおり。第2にヨブ記にあるように、自殺は絶望が動機となるが神への真の信仰を持つものは絶望しない。故に自殺は信仰心の否定。第3に、自殺してしまえば、悔い改めることが出来なくなる故に。第4になにかの責任を取って自殺するのは別の罪を避けようとするものである故。トマス・アクィナスは、生命は神から与えられたものであり、それを途中で勝手に終わらせるのは神への反抗であるとした。しかし、このユダヤ戦争の時代は、このような概念はない。しかも、エルアルサルは、兵糧を残していた。絶望によって集団自決したのではないことをローマ軍に示すためである。アウグスティヌスの第2の説を予期していたかのようだ。
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