2022年11月30日水曜日

お金で読み解く明治維新 2

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「お金で読み解く明治維新」の最終章は、維新で誰が得をして誰が損をしたのか?という問いかけである。

維新でかかった費用を最も負担したのは、昨日のエントリーにあったように商人である。江戸時代は、商人から税金を取らなかった時代で、時々臨時の「御用金」や「徳政令」が出たものの「いい時代」だった。しかし、その帳尻を合わすように軍費の負担を強いられた。維新後は、さらに幕府や藩が借りていた金を棒引きにされてしまう。「版籍奉還」「廃藩置県」がスムーズに行ったのは、各藩の財政が破綻していたからであり、各藩の藩札や藩債は新政府が肩代わりした。外国への返済は優先的に返済されたが、国内の商人には棒引きにされたので、江戸時代の大商人の多くは維新期に没落するはめになった。大坂の豪商34家のうち、24家が破産、絶家し、明治まで生き残ったのは9家のみだったという。

武士も商人以上に大きな損失を被った。「版籍奉還」「廃藩置県」は、新政府の財源を確保する目的があった。新政府は、旧徳川家や賊軍となった藩かの領地を直轄地(約860万石)としたが、到底足りなかったのである。「廃藩置県」で藩は廃止され、新政府が武士への俸祿を支払うことになった。とはいえ国家支出の30%にも達したから負担が大きい。段階的に減らし、明治9年に廃止し、一時金(俸祿の5年~14年分)を配布した。新政府の官職にありつけたものは、16%(明治14年の帝国年鑑)に過ぎなかった。武士階級が外国の脅威から日本を守るために起こした革命である明治維新だが、武士階級は最も多くを失ったわけだ。

薩長は得をし、旧幕府や会津など東北諸藩は損をしたように思われるが、直後はともかく、世界史的に見ても意外に平等に扱われている。新政府の官僚の3割は幕臣だし、岩倉使節団には14人もの幕臣が含まれていた。南北戦争などでは、南部の政治家や軍人は死ぬまで選挙権剥奪・公職追放されたままで、公共投資も後回し、平均所得も北部の半分以下、生粋の南部出身の大統領が出たのは、150年後のカーターまで待つことになる。日本では、盛岡藩出身の原敬が首相になったのが32年後である。江戸を首都とし、旧幕府・東北を差別するような政策はなく、全国で3番目の東北帝国大学が仙台に設立されたり、優遇されているといえる。これは世界史的には稀有なことらしい。薩長閥の政府高官が多いと言っても、ごく一部の人間で、多くの薩長藩士は他の武士階級同様であった。萩の乱や西南戦争もそういう不満の延長線上にある。

一番得をしたのは、実は農民である。「版籍奉還」「廃藩置県」により、土地は武士(藩)のものから国家(天皇)のものとなった。新政府は、無償でその土地を農民に与えたのである。さらに地租改正によって、年貢が現物から金銭に変わった。土地代の3%という税率は、江戸時代の収穫物の34%程度で同等か若干低い負担率だった。江戸時代は収穫率が上がっても年貢率も上がったのだが、土地代の3%なので、収穫率の上昇はそのまま利益に繋がる。これによって、農業生産が急拡大した。(明治6年と45年の米の収穫量は2倍以上になっている。)明治になって、これは単なる納税方法の転換ではなかったのだ。しかも、農民にも、移動の自由、職業選択の自由も与えられた。GHQの農地改革などとは比べ物にならないほどのダイナミックな「農地開放」が行われたわけだ。明治維新というと商工業の発達ばかりが取りだたされるが、農業の大発展が富国強兵を支えたのである。

著者は、武士階級が自ら既得権益を手放し、国民に各種の自由と権利を与え社会を近代化させようとしたのが明治維新であり、だからこそ国民の多くが新政府が実施した急激な社会変化を受け入れ、団結して近代化に取り組んだのだと結んでいる。…なるほど。

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