慶喜の命を受けて駿府の西郷を訪ねた山岡はその任を全うするわけだが、海音寺の史伝によれば、西郷の方にも思うところがあったようだ。西郷はそもそも武家政治を終わらせるためには、相当大きな血を流す必要がある、そうでなければ人心が改まらないと考えていたのだ。しかし横浜に人を送り判明した各国の外交団の意見は、すでに恭順している前将軍を官軍があくまでも討つというのは不法である、このような不法が行われるならば、軍を持って居留民の保護にあたるという意見が強く、幕府側についているフランスは特に強硬であったとのこと。海音寺の表現によれば、「頭のてっぺんをどやされたような衝撃」を受けたらしい。植民地化を何より避けたい西郷は、方針を変える機会を待っていたのである。そこへ、西郷好みのサムライ・鉄舟が来たというわけだ。
一方、鳥羽・伏見の戦いから、1ヶ月以上たってから官軍は東征に出ている。これには、財政上の問題が大きくのしかかっていた。小栗上野介のところで触れたが、幕府財政も火の車であったが、新政府には、もっと金がなかった。孝明天皇の一周忌を行うことすら出来ない状況だったのだ。新政府側の財政は、越前の由利公正が担うことになった。これは龍馬の招聘によるもので、大政奉還の成立後、危険を顧みず越前に赴いている。龍馬と由利は勝の海軍塾への資金援助以来の旧知の仲で、由利の藩財政建て直しの手腕(農民や商工人に生産資金が不足していることを見抜き、藩の信用創造で藩札5万両を発行。貸し付けた。生産性が上がったところで、生産物を独占的に買い取り、長崎を始めとした通商ルートを開拓し、生糸、茶、麻などを海外に売り、海外から金銀貨幣を獲得し、藩財政を2・3年で回復した。)に惚れ込んでいたのである。その後龍馬は暗殺されたが、鳥羽伏見の戦いの後、新政府の東征の軍費の太政官会議に招集された由利は、300万両は必要と言い、公債を発行し商人に買い取らせることにした。1月29日、二条城に大坂・京都の商人130人を集めた。三井などを為替方(政府取り扱い銀行のようなもの)に任命し利権を与えることで味方に引き入れた。2月11日の時点で20万3512両の献金が集まったが、遠くおよばない。これ以上ぐずぐずはできないと官軍は軍費の算段がつかぬまま進撃を開始した。
官軍は2月7日、布告を出す。①兵糧については沿道の諸藩が一時的に負担、朝廷が後日返済。②幕府の貯蔵金穀を徴収する。③一般人には一切負担させない。④兵士の給料は泊駅白米4合金1朱、休駅は白米2合銭百文とする。進撃の経路にあたる藩には、兵糧を負担するか否かで、「朝敵」か否かを判断する、また1万石あたり300両を上納させた。これに応じない場合も「朝敵」として征伐されることになった。征伐された後、さらに莫大な上納金を取られるわけだ。
西郷らは、駿府で待機していた、というよりは軍資金がなく動けなかったのである。山のような請求書がたまっていたらしい。(笑)江戸城の無血開城が決まっても、江戸に入れなかったのである。4月15日、三井らから4万両の資金を得て、4月21日にようやく江戸に入ったのである。
大法馬金 http://osaka-dokkaiko.blog. jp/archives/10183580.html |
その後も官軍の軍費不足は甚だしく、江戸の金銀座の接収で得た20万両は、和宮その他の賄料で消えたし、彰義隊掃討戦や幕府が発注していた鋼鉄戦艦の代金やらで、50万両が必要となった。海援隊の陸奥宗光が三井や鴻池などから23万4528両をかき集め、グラバー商会から20万両を借受け、朝廷の手持ち金で補い50万両を準備した。しかしアメリカは「内戦の中立」を理由に軍艦引き渡しを拒否したので、この50万両が浮いた。しかし、あっという間に軍費で消えてしまったという。
戊辰戦争の軍費のため、新政府は内国債を発行、「朝廷の財政が窮乏しているのを知っていながら、財力があるにもかかわらず」、募債に応じないものは、国恩をわきまえない不忠者ゆえ、それ相応の取り計らいをする。」という文言が付け加えられていた。脅迫である。(笑)明治2年の段階で、由利が示した軍費300万両の目標は、267万両にまで達した。これで官軍は函館まで遠征できたのである。由利の予測はあたっている。凄い財政家だったわけだ。
外交と財政、この2つが江戸無血開城という幕末のドラマに隠されていたわけで、なかなか興味深かった。戦争には、とにかく金がかかるのである。
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