2022年11月14日月曜日

司馬遼の歴史の中の邂逅4②

http://nikonekosoramame.livedoor.blog/archives/1943333.html
司馬遼の「歴史のなかの邂逅4」で印象に残った話として、河井継之助のことがある。もちろん司馬遼の「峠」は読んだのだが、だいぶ前のことなので忘れていることも多い。

河井継之助は死にあたって、下僕に棺を作らせ、庭に火を炊かせて終夜それを見ていたという。自分の生と死をこれほど客体として処理し得た人物も稀で、身についたよほどの哲学がなければできることではない。長岡藩全体で、陽明学を藩学としていたようだ。こんな藩は他にない。周知のように幕府は林家の朱子学であるが、この件については容認していたようだ。

江戸時代も降るに従って、武士階級は読書階級となり、形而上学的思考法が発達する。幕末ともなると、形而上学的昂奮を伴わなければ動かなくなる。幕末の人物たちはそれぞれ形は違っても、いずれも形而上学的思考法が肉体化しているという点で共通している。志士と呼ばれる人々も、賢侯と言われる大名も、戦国的な私的な野望が全くない。人はどう行動すれば美しいかと考えるのが、江戸の武士道倫理である。また人はどう思考し行動すれば公益のためになるかを考えるのが江戸期の儒教である。司馬遼太郎は、この2つが幕末人を作り出していると言う。

この幕末期の武士の人間像は芸術品とまでいえる。世界に類型のないサムライという美的人間である、と結論付けている。その最高の結晶が、河井継之助だ、というわけだ。

…なるほどと思う。たしかに勝者となった薩長にも芸術的な美的人間はいるが、敗者側にこそ美は輝く。私などは、松平容保とか土方歳三とか、山岡鉄舟とかの結晶が実に美しく見えるのである。

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