まずは、そんな長州藩のある意味影のシンボル的な人物について。白井小助という吉田松陰の五つ年上で松陰の二度目の江戸遊学の時の同期で藩邸で起居を共にした親友といってよい人物である。松陰が伝馬町の獄に繋がれた時、大小も着衣も売り払い差し入れをした。国事犯であった松陰への援助が藩に露呈し、小助は罪人となり国元に帰された。小助はその後許され、再び江戸で洋学を学ぶが、松陰は「志は壮とする。」と言いながら移り気なのでうまくいかないのではないか、と野山獄中から心配している。実際、洋学はものにならず帰国、攘夷戦争や藩内クーデターの騒ぎに奔走した。奇兵隊参謀となり第二次長州征伐を戦い、戊辰戦争でも官軍の参謀として長岡戦争に参加している。
これらの功績で奇兵隊を仕切った山縣有朋は陸軍中将になった。新政府はその運営のために、諸藩から政治と軍事の俊英を募った。小助は、この選にもれた。長岡戦争の時も小助はよく働いた。しかし、指揮能力や作戦応力はあまりなく、自然と山縣が指揮権を握る。小助は山縣の決めた作戦にうるさくケチをつけからんだ。やっかいな荷物であるが、松陰の親友(ちなみに小助は大村益次郎より2才若いが、木戸孝允より7才上、山縣より12才上である。)である大先輩を蔑ろにはできなかった。長州の面々は、新政府に小助にふさわしい職をについて悩んだようであるが、拗ね者の体を示し始め、口舌は常に毒を含み、行動は人の意表に出ていた。軍人や行政官にはおよそ不向きであった。やっと探し当てたのが、司法機関の弾正台(官吏の不正を監視して糺す)であったが、本人が怒声とともに蹴った。小助にとって見れば、自分よりも後輩の、はるかに無学な、出世欲だけがあふれる連中が高位高官になったゆえに、司馬遼の表現では「芸術的拗ね者」になってしまった。
明治になってから、小助は故郷に住み、東京との間をしきりに往復した。東京で大邸宅を構え、爵位を持って日本の要人となっている、伊藤博文、山縣有朋、井上馨、三浦梧楼、品川弥二郎らをからかうために襲撃していたのである。松陰の親友である小助は、彼らの若い頃の弱みを知っており、松陰門下を呼び捨て好き放題の放言をしつつ暴れまくった。
明治33年、従五位に叙せられた、と最後にある。伊藤や山縣の配慮だろう。従五位は貴族の最下位で、幕末の志士で功ある者にも与えられたようだが、ウィキには明治33年には誰も叙せられていない。白井小助の名を他年度で探したがない。…謎である。
昨日エントリーした会津の秋月悌次郎などと、比較するにもおこがましい人物である。武士としての美しさのかけらもない。従五位など必要ないと私は思う。
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