2022年11月11日金曜日

久坂玄瑞の歴史小説を読む。

市立図書館で幕末の歴史小説を借りてきていて、昨日読み切った。古川薫「花冠の志士」である。久坂玄瑞の話である。久坂玄瑞とくれば、吉田松陰の松下村塾、その中でも高杉晋作と並ぶ弟子である。蛤御門の変で死んでいる。吉田松陰という人は、本当に純粋な人である。その弟子であるから、久坂玄瑞も純粋である。純粋であることは美徳だが危険でもある。危機の時代にあって、松陰門下の多くは危険な存在であり散りゆく。意外に生き残ったのは伊藤博文や山縣有朋で先輩の残した遺産をうまく利用していく。

私自身は、長州の志士はあまり好きではない。我がブログの「留魂録」は松陰の遺書からとっているのだが、そのポリシーを好んでいるのであって、吉田松陰その人については、純粋すぎて異常な過激派の親分であると思っている。

この本を読んで、久坂玄瑞についても、結局好きになれなかった。何故だろうか。

長州・毛利家は関ケ原で敗者となり、領地を甚だ削られた。毎年正月には、今年こそ幕府を打ちましょうかと、家老が藩主に尋ねることが儀式となっていたという。積年の恨みをもっていた。後に雄藩となり力を蓄えるのだが、藩としては融通がきくというか、組織としてはタガが外れているところがある。金使いは荒いし、藩士も好き勝手に動くきらいがある。長州ファイブなどはその典型である。慎重なのは、逃げの桂(木戸孝允)くらいで、とにかくぶっ飛んだ人間が多い。要するに、公ではなく私の集団なのだ。

薩摩藩のある意味で統制(というか各人の向かうベクトルが島津斉彬のベクトルに近い)という部分で、長州とは大きく違うように見える。まあ、統制が取れているという意味では松平容保の会津藩。私は、会津のほうが美しいと思う。次に薩摩。長州は全く美しくないと思っている。さらに維新後の新政府での私心に走った姿、傲慢さがさらに評価を下げる。

久坂玄瑞は、蛤御門の変で死んでいるので、維新後の話は関係ないのだが、松陰や玄瑞の純粋性は結局、暴発に過ぎず、無に帰したような気がする。そんな読後感であった。星2つくらいかな。残念。

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