2022年11月6日日曜日

存在の類比と関係の類比

佐藤優の「同志社大学神学部」を読み終えた。興味深い記述がたくさんあったので記しておこうと思う。まずは、プロテスタント神学上の「存在の類比」と「関係の類比」の話である。

キリスト教には、「神の似姿」という考え方がある。旧約の創世記にあるように、人間は神の似姿であるので、人間は他の生き物を支配する権限を与えられた、というか管理権を与えられた。動物は神が創ったものである。自然全体に拡大すると、神が創った被造物には何らかの目的があるはずで、自然を読み解くことで神の意志を理解できる。だが、被造物の秩序を崩してはいけない。これが「存在の類比」という発想の根拠である。
この「存在の類比」はナチズムに対する有効な抵抗の原理を提供した。ナチスは「地と土」の神話に基づいて、キリスト教を変容しようとした。ナチスは、イエスを理想的なアーリア人種であるという改変を加えようとした。さらにパウロにユダヤ人の奴隷根性が染み込んでいるとしてパウロ書簡を新約聖書から排除した。プロテスタント教会の多くの牧師や神学者(カール・バルトも含む)もなびいた。だが、カトリックは、「存在の類比」を堅持し抵抗する。最も、カトリックは、スペイン内戦ではフランコを指示した。社会主義が自然の秩序に反すると思えたからである。

この「従来通り」で変化がない状況を理想郷にするのは、カトリシズムもプロテスタンティズムも同様なのだが、プロテスタンティズムは現状について別の認識を持つ。人類の歴史はアダム以来、堕落の歴史であり人類史の中で最も悲惨な深淵が1世紀のパレスチナに生じた。神はイエスを派遣し、イエスの力で救済へと引き上げられた。しかし再び人類は堕落していく。だが、救済の原点はイエスにある。その福音にならって行動することが「信仰の類比」である。モーセの十戒で冒頭で、神以外を拝んではならないとあるが、神による被造物であってもそれを人間が拝むと偶像崇拝になる。つまり、「存在の類比」は危険性があり、プロテスタント神学は「存在の類比」を採用しない。また、時代の進展とともに、資本家と労働者の関係やジェンダーなど社会的に形成されたものまで神のつくられた自然であると誤解してしまう危険がある。これらの欠陥を克服するため、神と人間が向き合う「関係の類比」を採用した。これがプロテスタンティズムの行動規範である。

…私はブディストなので、この論理をどれだけ理解できているかは疑問なのだが、キルケゴールの神の前に一人立つ「単独者」という概念が想起された。なるほど、キルケゴールはデンマーク出身なので、プロティスタント神学圏である。

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