山岡鉄舟の書 https://www.matsumoto-shoeido.jp/collections/902 |
さて、山岡鉄舟の項を読んで、やはり凄い人物であることがわかる。これまで読んできた内容にはない話としては、十五の時に座右の銘二十則をつくったこと。これを一生貫いたのである。大谷翔平選手が高校時代に設定した野球への取り組み目標に近い。やはり一流は違う。
21才の頃、ある旗本の家に友人とともに呼ばれて饗応されたが、主人が自らの健脚を自慢し、明日江戸から成田へ、下駄を履き徒歩で参詣に行く予定だ、誰か同行しないか。鉄舟はただ一人それに応じたのだが、翌朝は激しい風雨で、主人は飲みすぎてしかもこの天候ゆえ行かないという。だが、鉄舟はせっかくだからと、1人で成田を往復する。夜11時に、下駄の歯はみなつぶれ全身にはねが上がり泥だらけになり、その屋敷に帰着報告に立ち寄ったという。この「苔の一念」的な部分が、鉄舟の一生を貫いているわけだ。
講武所の世話役として、熱心に稽古に励んだのはいうまでもない。しかし、小野派一刀流の浅利又七朗にだけは叶わなかった。剣を持つと彼の姿が浮かんで消えなかったという。それを剣禅一味の修行で、彼に勝利したのは45歳だったというから、凄い話である。これも「苔の一念」としかいいようがない。
海音寺の史伝文学として、新たな発見だったのは、1つは北辰一刀流の関係で清河八郎と親密であったという事実。鉄舟にはない魅力があったのだろうが、幕臣として彼の暴発を止める役割をしていたようだが、この事が、勝の後ろ盾だった大久保翁の疑心を生んでいたようで、勝に注意を与えていたようである。
西郷の元へ行く際のなりゆきも発見であった。これまで勝の依頼だと思っていたが、寛永寺で徳川慶喜の警護をしていた高橋泥舟(鉄舟の義兄にあたる)に、慶喜から最初声がかかる。だが、泥舟の警護ははずせないので、誰かいないかと聞くと義兄の鉄舟の名を挙げた。鉄舟は慶喜の恭順の意思を確かめた上で、役に立たない勝ったと後に語られる匿名の上役2人を訪ねた後、勝のもとに行ったようだ。前述のように勝は鉄舟を怪しんでおり、議論をしたうで西郷への手紙を託したようだ。
江戸開城がなった後、山岡は西郷の護衛に着く。恩義を感じての行動である。その後願いで、明治天皇の侍従となるが、10年だけと約束し、きっちり10年間勤め上げている。このあたりの「苔の一念」も見事である。
昨夜は、日本代表がコスタリカに不覚を取った。「苔の一念」で無敵艦隊スペインに勝しかない。頑張ってほしいものだ。
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