2021年9月6日月曜日

虫の死骸 哲学的な秋の訪れ

昔、柳田聖山の「禅思想」という本を読んでいて、戦慄が走った逸話がある。インドの街で、サンニャーシン(修行者)が、行き倒れになった死体をひたすら見つめているという話だ。死体はやがて腐敗し、異臭を放つがその前を彼は動かない。ひたすら、死というものを見つめ続ける。ハイデッガーの「死に至る存在」の自覚などという美麗美句ではない、生々しい死を見つめる修行…。

三崎という自然豊かな地にあって、私は秋を感じている。涼しくなった、あるいは虫の鳴き声がするといった趣のある秋ではない。住処や職場に散乱する無数の虫の死骸を目にしているのである。ある時は、蝶、ある時は蝉、そしてバッタの類、甲虫の類、名も知らぬ虫たちの死骸…。

ふと、自分が死を見つめる行者であるような感覚に陥る。諸行無常、諸法無我。虫たちは生まれ、そしてわずかな時間を生き、そして死んでいく。彼らの生の意味を問いつつ、自分の生の意味を問い直す。そんな秋の訪れを感じている次第。

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