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さて、この水野忠成という人物、十一代将軍家斉の莫大な数の子女の縁談をまとめ役でもあった。水野忠成が嫁入りさせたのは、尾張・水戸など御三家、越前・会津などの親藩、伊達や鍋島、毛利そして前田などの外様など十三家。養子に入れたのは、尾張・紀州両家を始め、田安・清水の御三卿、鳥取池田家、津山松平家、石見浜田藩松平家、越前松平家、徳島蜂須賀家、川越松平家など十五家である。
だいたいどの藩でも将軍家からの縁談には腰が引ける。石高が増したり、持参金(化粧料)が入ったり、家格があがったり、松平姓になったりと表面上はいいのだが、それ以上の負担が重くのしかかったらしい。たとえば、加賀前田藩では、第24子の溶姫を迎えた際、その奥方御殿をつくることになった。しかも出入りのために特別な朱塗りの門を作る決まりだった。それが現在の東大の赤門らしい。…なるほど。
ところで、この水野忠成は、水戸家の相続争いにも関わっている。徳川斉脩(なりのぶ)の死去に伴って、家斉の第十四子恒之丞(御三卿の清水家を相続していた)を水戸藩主にしようとしたのである。この時、斉脩の弟の敬三郎を推す、藤田東湖ら40余人の国元改革派が江戸藩邸に乗り込み、敬三郎が「遺言」で藩主となった。この敬三郎が、かの烈公・徳川斉昭である。人間はこういう種類の恨みを絶対忘れないものだ。したがって、斉昭の深層心理には、反水野忠成がある、ということである。…なるほど。
「幕末バトル・ロワイヤル」にはこういう意外な話が満載である。人間の縁というのは意外な偶然によっているなあと思う次第。桜田門外で死す井伊直弼も、土佐の山内容堂も本来なら藩主になれないような境遇だったと記憶する。斉昭ともども、歴史に登場するためのなんらかの力が働いたのかもしれない、と思ってしまう。
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