2012年10月23日火曜日

私たちはマララ

パキスタンの保守色の強い北西部で、女子の教育を制限しようとするタリバーンの脅迫に怯えながらも学校に通う日常生活を送っていることをブログに綴っていた活動が認められ、パキスタン国内で18歳未満の未成年を表彰する「国家平和賞」を受賞していた15歳の少女(マララ・ユスフザイさん)が、学校のワゴン車に乗っている所をタリバーンの武装集団に襲われ、銃撃された。

このニュースを私は昨日NHKの報道で知った。現在彼女はロンドンで治療を受けているのだが、世界中で彼女の回復を祈る活動が行われている。「私たちはマララ」という新聞社から始まった支援活動である。かなり重症だったようだが、現在はだいぶ回復したらしい。

パキスタンでは、このタリバーン掃討作戦を強化すべきという意見と対話によって解決すべきという意見に二分されているらしい。

…開発経済学から見れば、女性の教育は重要な視点である。子供の命を守る保健衛生面からもそうだし、女性の労働によって蘇生した村も多い。もちろん、ジェンダー・人権という面からも様々な支援がなされている。当然、私はこれに異を唱えるものではない。

…一方、イスラムの女性観については、私は数冊の本を読んだにすぎないが、「女性を守る」というスタンスが貫かれていると感じている。一夫多妻制も、ジハード(聖戦)で夫を失った女性を守るためであったらしいし、ヘジャーブも同様であったと思っている。だが、イスラム共同体が国家となっていくにつれ、女性の権利が制限されていったらしい。

…今回の事件、私は「私たちはマララ」の対場に立つ。いかなる意見の相違があれ、暴力で対処するのは野蛮きわまりない。この点、原理主義者のタリバーンの非は明らかである。しかし、イスラム教全てが、女性の教育を否定しているわけではない。イスラムに対する無理解が拡大しないかと心配する。また過激な原理主義者が何故生まれたのか。それも考慮に入れなければならないと私は思う。タリバーンは、イスラム教の教義だけ学んだ兵士が多い。原理主義的な教義しか知らない。他者を理解する能力に欠けている面がある。多くは貧困な家庭に生まれ、神学校で育てられた人々である。教育の力がいかに大きいかを感じるのだ。

…貧困に苦しみ、そこから脱出するため学びたいと思う女性が、貧困の中で原理主義に染まりあがった男性に襲撃された。問題は、「貧困」にある。これだけは間違いないと私は思うのだ。

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