2012年10月5日金曜日

『ハイデガー拾い読み』を読む

新潮文庫の新聞広告に「ハイデガー拾い読み」(木田元著)という新刊が載っていた。これは読まなくては…と思った。私の高校時代の倫理社会の恩師は、ハイデガーの徒である。私自身もハイデガーの「世界内存在」という考え方、「ひと」に堕してしまう生き方を克服する実存主義哲学は、サルトルの次に好きだ。ハイデガーの哲学を基本コンセプトとして『ミカドはジグソーパズルがお好き』というオペレッタの脚本を書いたこともある。

さて、この「ハイデガー拾い読み」は、久しぶりに読む哲学書であった。ハイデガーの講義録をもとに、著者がアトランダムに議論を進めていく。私は、少し行儀が悪いのだが、文庫本を読み進める時、面白いと思ったページに折り目をつけてしまうのだが、かなりの量になってしまった。さて、エントリーでは、どの話を書こうかと思ったのだが、そのどれを取ってもかなり難解な文章になると思われる。

で、この本のアウトラインを少しだけ書くことにする。第一に、ハイデガーはアリストテレスを中心とした文献学者であること。それも、かなり強引な解釈をしていること。第二に、コトバというものがいかに、いいかげんで真意を伝えていないか、特にギリシア語・ラテン語・ドイツ語・日本語というラングの相違によって、かなり変化してしまうということもわかる。第三に、プラトン、アリストテレスの存在論の相違。プラトンのイデア論を存在論的に見る時、アリストテレスの「形相と質料」は、プラトン以前の存在論への回帰であること、などが印象に残った。うーん、ものすごく平易に書いたつもりだが、結局うまく伝えられない。(笑)

この本にはかなり多くの哲学者の話が登場する。プラトン、アリストテレス、デカルト、スピノザ、ライプニッツ、シェリング、ニーチェ、キルケゴール…。倫理の教師としては、一応普通に通読できるのだが、おそらく、哲学を専攻する学部生以上でないとかなり難解であろうと思われる。だが、私の倫理の授業をちゃんと学んだ生徒なら、ぐっと我慢すれば読めそうだ。今3回生をやっている前任校の国語科の生徒なら、特に四天王と呼ばれた優秀な男子生徒諸君なら、専門外だが十分読めるのではないか、などと思った次第。

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