著者は、最初律法のもとに父祖たち(アブラハムやモーセ等)に現され、ついで福音において私たちに現された認識(すなわち三位一体の「神」)がキリスト教本来の神の認識であることを強調していると書いている。キリスト(=救世主)認識は、受肉(人間となって歴史に登場したナザレのイエス)に限定してはならない、キリストについての考察は、「律法において約束された」ところから始まり、約束の成就(=律法の成就)としての来臨、さらに終末における第二の来臨まで及ぶものではならないと語っている。前述したように、第一篇の福音の話から、第二篇は律法、という順序になっている。
カルヴァンの言う律法は、「全ての信仰の父」と呼ぶアブラハムとの契約に始まり、モーセを介して400年後に律法ができたが、これは契約更新のためであるとする。(アダムやノアはほんの火花のようなものであるとする。)ただ律法は実物に対する影、本体に対する印(しるし)であり、救いの確信の根拠とするには程遠いと言う。また”キリストは律法においてどのように現されたか?”が問題となるが、仲保者なしでは神は恵みある神として示されないが、律法の祭祀規定が和解者としての神を示しており、仲保者の必要性がはっきりと示されている。受肉して現れたキリストについての予告は、律法と予言書に言葉として確固としてあり、約束を成就したキリストについての認識は、使徒の証言により確立しうる、と語られていく。つまり、律法は、主として受肉したイエスの出現のためのものであるわけだ。
原罪について、カルヴァンはルター派の「人間は罪の塊である」という一刀両断的な認識も、カトリックの自力救済のかすかな可能性も取らない。前述の”人間の創造”(昨日のブログ参照)のとおりである。
またルター派に比べて、カルヴァンは律法を高く評価している。キリスト(=救世主)の存在は律法のもとで予め知らされ、福音において現れた。ヨハネの福音書(8-56)に「アブラハムは私のこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ。」とある。旧約がキリストに大きく関わっている。ヨハネの福音書の冒頭「はじめに言葉ありき、言葉は神と共にあった。」は、旧約の原型で、ユダヤ教の知恵は言葉であるという解釈はキリスト教に引き継がれている。ルター派は、律法を幼児を教育する「養育係」とするが、律法の一端である、原罪に向かう場合もあるからで、カルヴァンの言う律法の本質は著者マタイ福音書の山上の説教でモーセの十戒を正しく解き明かしたこと、であるとしている。
このように、ルター派の律法理解は、律法と福音を対立させる傾向があると著者は批判する。律法と福音は同一の神からのものであるし、本質的に同じであるし、キリストを示す同一目的による共通性、連続性がある。キリストが律法の終わりとなったことについて、マタイの福音書(5-17)に「律法を廃止するために来たのではない。」という啓示は、律法の役目(目的・目標としての務め)は終わったという意味で、罪に定める機能は終わったということだと記されている。
ここから先の律法の三用益、カルゲドン・キリスト論、キリストの預言職・王の機能・祭司職、昇天・再臨の項は、何度も読みかえしたが、神学生向けでさらに難解であるので割愛したい。ブティストの私にはさすがに理解しがたいところにあった…。
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