ちなみに、カテキズムは、中山訳以来「綱要」と訳されたが、本来は教理教育、その教程という意味であるらしく、もう変更しようがないと著者は不満げである。この初歩的教程の終わった者は、信仰告白者として、聖なる晩餐の共同体の中に受け入れられる、この基本的な確認が、カテキズム教育の意味である。宗教改革が始めたカテキズム教育の成果を受けて、カトリックでも「ドチリナキリシタン:公教要理」というカテキズムを作成し現在に至っている。(2学期が始まったら学院の図書館に探しに行こうと思う。)
ルター派のカテキズムとカルヴァンのカテキズムの対比が面白い。最重要要素の十戒(律法)から使徒信条(福音)へという順序のルター(の特質的なもの)と、初版では同じ順序である。カルヴァンはルターを尊敬していたことは確かだが、神学的に距離を感じていたし、文化地盤も異なる。第二のカテキズム(ジュネーヴ教会信仰問答)では、福音、律法の順序になっている。…ブディストの私から見ても、実に大きな違いのように感じる。
カルヴァンは、「キリスト教的自由」について初版から挿入している。このことは、カトリックの教会法が人々の良心をも拘束していたことと、急進的宗教改革の自由と秩序理解を批判する必要があったことが挙げられる。ところで、ルターも「アウグスブルグ信仰告白」や「キリスト者の自由」を書いて論じている。カルヴァンは、ルターが明晰さを欠き、自由を内面化しているのに対し、自由を論じるだけでなく、自由を奪う仕組みの元となる教会的伝統、政治的統治まで精緻に論じている。…このあたりの両者の相違も実に面白い。
0 件のコメント:
コメントを投稿