2022年8月19日金曜日

橋爪大三郎の「社会学」考

『古市くん、社会学を学び直しなさい!』(光文社新書)の12人の社会学者の中で、最も馴染み深いのは橋爪大三郎である。(よって、氏をつけない。)宗教学関係の共著や対談で頻繁に読ませてもらっている。だから、というのではないが、最も社会学とは何かという説いへの答えが面白い。

「社会学」はフワフワしているとよく言われるが、それは「社会」とは何かという本質を抜かしている議論だからだという。一般の人々も「社会」の中で生き、「社会」という日常語を使う。よってある程度の認識がある。しかしその経験、認識は狭く、「社会」はもっと広いと自覚している。この全体を見ているのが「社会学者」だということになっている。また「社会」を対象にした学問の最初は政治学から。次に市場が拡大して経済学。両者が扱わない「社会」をまるごと対象とする社会学ができ、社会を対象とする科学、社会科学という名前が誕生した、というのが橋爪大三郎の「社会学」考。

社会学者には飼い猫と野良猫がいる。アカデミズムの中で生きている社会学者が飼い猫。実質的に社会学者としての仕事をしている人、たとえば山本七平、小室直樹、小林秀雄、吉本隆明なんかが野良猫。社会学には、それなりの”しきたり”(古典を読むとか、社会調査と分析の訓練)がある。しかし、他の社会科学を越境して学ぶことが必須だという。M・ウェーバーだって、アウトプットは社会学だが、インプットは経済・宗教・音楽など社会学以外だと。

天才の本をまず読むことを著者に勧めている。天才のアイデアを思いつく可能性はゼロなので読むしかないからである。(社会学に関係する)天才とは、レヴィ=ストロース、ヴィトゲンシュタイン、M・ウェーバー、マルクスの4人だそうだ。

…天才のスタンスで分析するのではなく、天才のやり残した課題や批判され負けたとされる課題を意識するべきだという意見も面白い。曰く『フーコーを勉強しても、フーコーが勝ったところだけを受け取ってしまう。フーコーが負けたところを受け取って仕返しをしてやろうと思ったらファイティングポーズになるでしょ。フーコーが友だちだと認めてくれる人って、そういう人ですよ。』

…ちなみに橋爪大三郎は、ヴィトゲンシュタインの言語ゲームを社会学に使えないかと考えたそうだ。言語ゲームはヨーロッパの哲学的伝統から生まれたアイデアだからヨーロッパ社会とは相性がいい。言語ゲームが普遍的であることを証明するためには、ヨーロッパではない系統の社会でなかればならない。直感的にそれは仏教だと思い、分析してみると、できたとのこと。

…ヴィトゲンシュタインの言語ゲームと仏教。調べてみたら『仏教の言説戦略』という初期の著作であるらしい。中古の文庫でも、ちょっと値が張るけれど欲しいな。

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