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すると、儒教は継体天皇の時代513年である。百済から五経博士が渡日して以来であるそうな。五経博士というのは、五経(儒家の経典:易・書・詩・礼・春秋)の学官で、日本書紀には数人の学官が派遣されたとあるが、よくわからない。ただ、全て百済に帰化した中国人であるらしい。また、古事記には、それ以前(5世紀)王仁(わに)が論語を持って渡来したという伝承もある。この王仁は枚方市とつながりが深い。近くに王仁公園があったりするので、身近な存在だ。こちらも中国人らしい。ところで、道教のほうが4世紀ごろに入ってきているらしい。これは意外。また儒教とともに陰陽五行説も入ってきて、陰陽道に発展したとか。ちなみに仏教伝来は、日本書紀では538年、欽明天皇の時代が公伝とされている。では、下から二番目は儒教(中国思想では、やはり儒教である。道教の影響は、一周忌などの法要や還暦時の赤いちゃんちゃんこ等くらいしかない。老荘思想の影響は幽玄などの日本の芸能に繋がっているという意見もあるが…。)、その上に仏教、さらに近代以後の西洋思想をおくのが正しいだろう。
さて、日本の儒教の流れを調べていたら、気になる人物名が出てきた。鳥居耀蔵(ようぞう)である。林羅山に始まる江戸時代の文教政策を統制した林家(りんけ)の系図に載っている。第8代当主の林述斎の三男で旗本の鳥居家の養子になった幕臣である。
なぜこの人物がと思われるだろうが、今読んでいる最中の「長英逃亡」のヒールなのである。水野忠邦の天保の改革時に目付けや南町奉行となった側近で、蘭学者を嫌悪し蛮社の獄をの中心人物となっている。讒言で人を蹴落とし(遠山の金さんも北町奉行をやめさせている)、市中取締でもおとり捜査など権謀術数にたけ、まむしの耀蔵、妖怪(妖は耀蔵のよう、怪は官位の甲斐守のかいをもじっている)と呼ばれ評判はすこぶる悪い。水野忠邦を裏切り、その再登板時に職務怠慢・不正を理由に解任され、財産没収の上、最終的には丸亀藩あづかりになる。「金毘羅へいやな鳥居を奉納し」という落首が残っているくらいだ。以後20年間維新での恩赦まで幽閉の身として過ごすことになる。
林家の出身であり、洋学者を嫌悪するのは百歩譲って認めたとしても、あまりに偏狭な思考回路と、権力志向と自己保身の強い小人物であるような気がする。今の日本にも、こういう輩が永田町や霞が関に徘徊していそうだが…。
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