2022年8月17日水曜日

西田幾多郎の「純粋経験」

日本の思想史の中で、高校生にとって最も難解だと思われるのは、言うまでもなく、京都学派の西田幾多郎であると思う。時折センター試験・共通テストにも登場する。例の『今こそしりたい日本の思想家25人』の西田幾多郎の章ではどう解かれているかを整理しておこうかと思う。

西田幾多郎とくれば「善の研究」であり、純粋経験なのだが、こう記されている。『何かと接した時、人はそれを経験することになるわけですが、その直前の段階があるはずだというのです。その経験する直前の段階というのは、いわば自己が対象と一体となって混在している状態です。経験に入る前の原初の状態だと言ってよいでしょう。たとえば音楽が耳に入ってきた時、これはなにの曲だろうなどと考え始める直前のように、あるいは何かわからないまま口にして、これはなにの食べ物だろうと考え始める直前のように。それはもう瞬間なわけです。たとえそれがどんなに短い時間であったとしても、論理的には対象と接した自分が、それについて経験といいえるほど頭を使って理解するまでの間に純粋経験ともいうべき段階が存在するということです。』

…そもそも、西田哲学の出発点は、真の実在とは何かである。西洋哲学では精神(主体)と物質(客観)を分けているが、人が知ることができるのは知情意(知性と感情と意思)の作用であって心そのものではない。疑いようのない真の実在は、純粋経験だとした。この純粋経験は主客未分である。先に個人としての自己があって経験するのではなく、個人としての自己はこの純粋経験を通して初めて現れるわけだ。

『西田は、その純粋経験の先に人格の実現としての「善」を発見したのです。しかもそれは意識の統一であり自他の区別をしない感覚であり。個人が人類一般の発達に貢献することであるといいます。人間は、なにか対象に接すると、それと自分の意識を関わらせます。その結果として自らの人格を形成していく存在なのです。その頂点が善ということになるのでしょう。』

…善の研究では、真の自己を知れば、宇宙の本体と融合し神意と冥合(知らず知らずに1つになること)すると説いている。これは、かなりインド思想・仏教的な結論である。

『(その後西田は「場所」という論部の中で、絶対無を説きます。)真の意識とはあらゆるもの同士、あらゆる概念同士の対立がなくなる場所(=絶対無)において現れるということです。…場所の態様によって見られるものが異なってくるのです。限定された有の場所では単に働くものが、対立的無の場所では意識作用が、絶対無の場所では真の自由意志がという具合に…レベルアップしていることがわかります。いわば、絶対無の場所に行けば人は自由になれるのです。なんでも理解することができるのです。西田はそんな形而上学的な場所を想定したのです。』

…ここから「絶対矛盾的自己同一」(絶対的に矛盾するものが、同一の場所において相互に関係を持って作用しあうこと)という概念が生まれてくるわけだ。うーん、私にはなんとなく実感できるのだが、説明するとなると四苦八苦しそうではある。

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