2022年8月11日木曜日

本居宣長「松阪の一夜」

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「いまこそ知りたい日本の思想家25人」の話の続きである。今日は、本居宣長。国学は、荷田春満(かだのあずままろ)から賀茂真淵へと繋がり、松阪で医者をしていた本居宣長に繋がる。江戸から賀茂真淵が松阪に来た際、一夜だけ本居宣長と面会している。これが「松阪の一夜」で、自分の果たせなかった古事記の研究を託される。一度教えを受けただけでも師弟関係が成り立ちうるわけで、以来、宣長は、賀茂真淵の弟子を自認し35年の歳月をかけて「古事記伝」44巻を完成させる。

宣長の思想の根底に「漢心(からごころ)」を排除するべきだとし、「大和心」の意義を説いた。偽りのない対象に共感する心で「真心(まことのこころ)」とも呼ぶ心である。万葉集に真心がある、利欲を含めた人間の生まれながらの自然の情があると。また古今和歌集の女性的でやさしい歌風「たをやめぶり」も感情の自然な発露として重視した。さらに、源氏物語に見られるような、あるものに直面した際の人間の純粋な感情である「もののあはれ」論を説いた。ものとは対象であり、あはれとはああ、はれといった嘆きの声を重ねたもので、すなわち知性と感性が同時に働いている状態であり、これこそが人間らしさの表れで、人間が本来持つ情感にさからうことなく素直に従うことによって人間らしい生き方ができるというわけである。

さて、古事記伝である。日本書紀に対して優位性を示そうとした古事記の注釈書だといえる。日本書紀は儒学的に解釈されたものである、日本は中国の易姓革命ではなく天照大神以来の皇統を永続させてきた故に卓越性を持つとした。古事記には、口謡の言葉、「やまとことば」が表されている。(もうすこし具体的に言うと日本書紀は全て漢文。古事記はまだ”かな文字”がないので、和化漢文という日本語の音を漢字で表記すしている。)

私は、近現代以前の日本史が苦手だし、日本の古典文学の素養に欠けるきらいがあるので、記紀の評価も本居宣長の批判もするつもりはないが、まさにアンチ・儒学としての国学を大成した人物であることはまちがいがない。何より、「松坂の一夜」という師弟の道には感銘を受けざるを得ない。

*画像は拡大できます。記紀の相違についてのイラスト解説です。

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