佐久間象山もそうだが、才に溢れた人というのは、自らの本懐のために冒険を惜しまない。同時に周囲もそれを支えるのだが、幕府の隠密によって宇和島での滞在も危機に瀕する。ならば薩摩へと長英は考えるのだがが、未だ斉彬は藩主になれずであった。そこで、長英は仕方なく江戸に戻る。しかし、幕府からの翻訳禁止令が出て、生業が干上がってしまい、経済的に行き詰まる。長英は、妻子を養うために、蘭学医を改めて生業とする決意をし、顔を焼くのだ。丁子油(日本刀の手入れに使われるクローブ油)を左眼の下から頬一面に塗り、顎までひろげ、ガラス瓶に入った発煙硝石精(硝酸カリウム:KNO3)を振りかけたのである。私は長英が、顔を焼いたという事実だけは知っていた。逃亡の為の話だと思っていたが、妻子を養うためだったことに驚いた。
これでひと安心と思われたが、長英の訳した本が出回り、そのあまりの出来の良さに長英の存在が疑われることになる。写本の経路をたどると、江戸に潜伏していることをつかんだ南町奉行所(遠山の金さんがちょうど奉行だったらしい。)は、長英の素顔を知る囚人を使い、ついに居所を見つけ踏み込む。凄い修羅場になり、この時点で長英は死亡する。火付けは火あぶりであるが、遠山の金さんは、あえて死罪に減刑する。すでに死んでいるのだが、そもそも長英は洋学嫌いの鳥居耀蔵(8月6日付ブログ参照)に恣意的に入牢させられたことを知っていての”大岡裁き”であった。とは言え、塩漬けにされた長英の遺体を斬首している。高野長英の人生は、少しずつボタンの掛け違いで、自らも周囲も巻き込んで苦悩していく人生である。海防の意見書を出すのが早すぎたし、鳥居耀蔵の悪意がなければ問題がなかった。牢に火付けしたことで大罪人になったが、その直後に鳥居耀蔵は失脚している。そのまま大人しくしていれば、その才により幕府に雇われたかもしれない。また捕まり死んだ3ヶ月後に斉彬が藩主になっている。隠密も入れなかった薩摩でさらに翻訳を続けれたかもしれない。長英逃亡を支えた人々も様々な刑に処せられている。最も関わりが深かった数学者の内田某だけは、太陽暦の採用、学士院総説などに関わったようだ。彼が生き延び明治期に大成したことは、数多い不幸中の唯一の幸い、という感想である。
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