2022年2月20日日曜日

受験の世界史B 研鑽ー51

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学年末考査作成に手間取っていた。世界史の研鑽を久しぶりに再開。今回は後漢の滅亡くらいまでをエントリーしたい。

武帝の時代には、高祖の時代のような儒家アレルギーはなくなり、董仲舒(とうちゅうじょ)の献策を受けて、儒学を官学とし、太学という官立の学校を建て、優秀な学生を官僚に任命した。以後儒学が中国の学問の正統として確立する。官吏登用では郷挙里選(きょうきょりせん)という制度も行われた。地方の有力者が、儒学の素養があり評判の良い若者を地方の役人に推薦し、さらに地方から中央政府に推挙して官僚が採用されるという制度である。地方豪族の師弟が中央に推挙されたのは言うまでもない。

閉話休題。先日、韓国は儒教国家故に、契約や約束事を破るという論がYouTubeでなされていた。これは、徳による政治を重視し、法家的な政治を悪と見る極めて前近代国家的なものと言える。民の感情を重視し、徳のある政治が行われることが儒家的な善だというわけだ。よって、民が反対すれば、国際法や契約は守らなくても良いという論理が成り立つ。儒家の義の論理はぶっ飛ばされている。こういう国家が現在も存在することは、実に迷惑と言わざるを得ない。

さて、武帝の死後、地方豪族の成長が目立ち、奴隷や小作農を使い大農場を経営、郷挙里選で中央政界に影響力を持つようになる。しかも、漢の王朝では、宦官と外戚の権力闘争が激化していた。第十代・元帝の皇后の甥は、外戚の立場を利用して高位につき禅譲をによって皇帝になる。これが王莽で、劉から王へ皇帝家が移ったので国号は、漢からと変わった。(5年)王莽は儒学者で、儒家の理想(周代の制度/大土地所有を制限する王田制など)を強引に現実に当てはめようとしたので大混乱となる。豪族による緑林の乱、農民による赤眉の乱が起こり、わずか15年で幕を閉じる。

赤眉の乱を鎮圧したのが、劉秀=光武帝(地方豪族だが前漢皇帝家の血を引いていた)で、王朝名は後漢となる。都は長安から洛陽にうつる。緑林の乱以来の豪族の反乱軍の最終的なリーダーとなった劉秀の後漢は、豪族の連合政権という側面があったが、政治に関しては前漢を踏襲している。対外政策では、班超が西域都護(せいいきとご)として活躍、前漢武帝時同様の領土に戻した。また部下の甘英(かんえい)を西方に派遣、大秦国に至ったと言われている。これがローマ帝国だったかどうかは定かではない。

2世紀以後の後漢は、幼帝や覇気のない皇帝が続いたので、またまた外戚と宦官が権力を握るようになる。特に後漢では宦官の勢力が強く、これに反発した清流と呼ばれた官僚が世論の支持を集めたが、党錮の禁と呼ばれる大弾圧が行われた。後漢の宮廷は官僚からも見限られ、逸民(いつみん)と呼ばれる世捨て人も生まれた。中央官僚は地方に戻り、王朝を支えず私利私欲に走り、自作農を圧迫、小作や奴隷として従属したり、流民になったものも出た。農民たちをとらえたのが宗教で、太平道・五斗米道であった。病癒、貧困者の救済(五斗米道では義舎という無料宿泊所があったし、政府や共同体が行うべきインフラ整備を行っていた)五斗米道は現・陝西(せんせい)省から四川省に宗教王国を形成、太平道も東部を中心に数十万の信徒を集めた。これらは、後の道教の源流となった。

184年、太平道の指導者・張角は、後漢と豪族を滅ぼすため反乱を起こした。これが黄巾の乱である。豪族は私兵を集め、黄巾の乱を抑え込もうとした。この時、兵をあげたのが、後の三国時代の曹操孫堅劉備などである。結局豪族の奮戦で乱は鎮圧されたが、後漢王朝は無力化し名目だけの存在となる。

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