http://japan.visitbeijing.com.cn/a1/a-XCXI9F9BAEC3A2B6A306A7 |
始皇帝が死の翌年(前209年)、大雨で川が氾濫し、期限までに万里の長城近くの警備に間に合わない状況下、処刑されるのなら反乱を起こそうと陳勝と呉広は考え、仲間を引き入れるため、大魚に陳勝が王になるという布を入れ料理番に渡したり、裏山で狐の声をまねて秦が滅ぼされて楚の陳勝が王になると叫んだりと、子供だましの手で農民たちを説得する。後戻りできないように、秦の役人を殺し、「王侯将相いずくんぞ種あらんや」と叫んだのは有名。旧六国の有力者に檄文を送り、各地で様々な反秦蜂起がおこった。秦の地方進駐軍を破り数万の軍勢にふくれあがったものの、半年後には鎮圧された。
全国の反乱軍のリーダーになったのが項羽である。楚の名門将軍家の出身で、大男であり強いオーラがあった故にリーダーとして申し分なかった。一方、農民出身で中年になった「侠」であった劉邦は、亭長(交番勤務のような下級官僚)になる。首都・咸陽の工事のため何百人もの若者を引率していたが、逃亡者が続出し、半分になってしまい、開き直った劉邦は全員に逃げるよう言い、自分も逃亡した。その後、陳勝呉広の乱が起こり、郷里で「侠」の仲間を集め、一旗揚げ、項羽の参加に入った。前206年、咸陽を項羽の主力が西から、別動隊を劉邦が率い南から攻めた。両者は事前に先に咸陽を占領したものが、咸陽の王になる約束をしていた。劉邦軍はたいした抵抗もなく入城、一方の項羽軍は秦の精鋭部隊と遭遇し、遅れた。劉邦は、阿房宮の略奪を禁じ、降伏した三代皇帝の子嬰(二代皇帝の甥)も殺さず、法三章「殺すな、傷つけるな、盗むな」だけを法とした。法家に苦しんでいた民衆は喜んだ。しかし、遅れて入城した項羽は、阿房宮を略奪し火を放ち、子嬰と皇族を殺した。人心は項羽から離れた。
名門武人の項羽は、プライドが高く、始皇帝を見た時に「いつか取って代わってやる」と言い、劉邦は「男と生まれたからには、あんなふうになってみたいもんだなあ」と言ったと言われている。
項羽は、秦のような統一国家を目指さず、春秋戦国時代のような各国併存を目指していたようで、自らは西楚の覇王と称し、功績のあった反乱リーダーを各地に封じた。劉邦との咸陽に約束は反故にされ、西方の奥地・四川省あたりに封された。地名を冠して漢王となった劉邦は、これを不満として、以後5年間項羽と戦うことになる。劉邦軍は毎回負けるのだが、そのたびに項羽軍は寝返るものが出て弱体化していく。前202年の垓下(がいか)の戦い。10万の項羽軍は垓下の城に籠り、30万の劉邦軍が包囲していた。夜、聞こえてきたのは楚の歌。かつての項羽の部下が今は劉邦軍にいるわけで、これが「四面楚歌」の故事である。結局は、人望の違いであるわけだ。
京劇で有名なのは、項羽の最後の宴で、虞美人を想う歌を詠む。虞美人は自分が足手まといになっていることを悟り命を絶つ。(彼女の血を吸った大地から咲いた花が虞美人草)宴の後、囲いを破り楚に向かうが、長江を渡る際、船頭に「大王よ、その国は広いし、人口も多い、今は負けてもまた再び王になってください」と言われ、多くの楚の若者を死なせてしまった、おめおめと楚に帰れようかと反省する。結局死に場所を求め、引き返しかつての部下を発見し、俺の首をやろう、と自ら首を跳ねたと言われている。こうして、劉邦が天下を統一することになる。前漢である。
0 件のコメント:
コメントを投稿