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下部構造の変化は、鉄器農具の使用と牛耕の登場である。当時、農民は邑から農耕に出かけていたが、日帰りできないほど開拓が進むと新たな邑が増え、農地も人口も拡大する。邑という点と点を結ぶ邑制国家から、面として領土を持つ領域国家へと発展する。領域国家となったことで国境線をめぐって戦争がが日常化し、戦車に乗った貴族から動員された農民の歩兵が主力に規模も拡大した。商工業も発展し、人口数十万規模の都市も出現した。青銅鋳貨が発行される。北部の斉・燕では刀銭(勝利を願う呪術的な意味合いをもつ)、中央部の韓・魏・趙では布銭(豊作を願う)、西の秦では環銭(円銭:穴に霊的な力が宿る)、南の楚では蟻鼻銭(子安貝の形で南方の影響大)が造られた。矛盾の故事もこの頃で、注目すべきは鉄器が、注文生産ではなく流通を前提にして生産されていることである。
続いて、上部構造の変化である。ネタ本の章のタイトルは富国強兵。戦国時代は生き残りをかけて、改革を進めていった時代。趙の武霊王は騎馬民族の戦術を導入し、そのために軍服を変更したが、貴族らは胡服だと猛反対したが押し切った。貴族には時代の求める改革をできる人材が少ない。そこで能力主義の人材登用が行われる。燕の昭王の「隗(かい:宰相・郭隗のこと)より始めよ」や、斉の宣王の「稷下(しょっか)の学」のような状況が生まれたわけだ。
結局、戦国時代を制したのは秦だが、考公の抜擢した商鞅は、「商鞅の変法」で秦の飛躍の基礎をつくった。商鞅は衛の出身で、「帝」の道、「王」の道を説いたが、退屈した考公に「覇」の道を説き、信任を得た。しかし貴族の反感、民衆は自分を知らないので、市場の触書に北門まで材木を移動させた者に十金(後に五十金)を与えると書き、実際に移動させたものに支払った。この後、商鞅の評判は高まり、変法に動く。
第一次変法 什伍の制(納税や防犯の連帯責任をとらせる五戸・十戸ごとの隣組を組織)、農家の分家を強要、未開地に入植(分家しない場合賦税が倍増)、戦争での功績は爵位をもって答える(能力主義)、男子は農業、女子は紡績などの家内工業に励み、成績の良い者は税免除。商業をする者、怠けて貧乏になった者は奴隷の身分に落とすなど、法令を社会規範の要点とした。これに異議を唱えてきた者は死刑、また反対に賛美しにきた者も死刑。
第二次変法 第一次変法で蓄えた力を使い魏を破る。前350年咸陽に遷都。父子兄弟が一の家に住むことを禁じ(中原諸国から見ると野蛮な風習であったことを改めると同時に)さらに入植を進め、井田(せいでん:1里=約405m四方の土地を井の字の形に9分割し、中央が公田、周囲を私田とする周で施行されていた土地制度)を廃し田地の区画整理、度量衡の統一などを行い、郡県制で中央集権化を進めた。
法家の思想を元に秦を強国にした商鞅は、考王の死後、謀反の疑いをかけられ亡命しようとするが、通行手形を持たないが故に(厳命したのは本人)つかまり、車引きの刑に処せられた。
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