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黄巾の乱を制圧した豪族の中で最強だったのが、後漢を滅ぼした魏。曹操は建国者だが皇帝にならずに死去し、曹丕が初代皇帝(後漢の皇帝に譲らせた)。曹操の祖父は有力な宦官で、豪族だった父が養子となり高級官僚であった。黄巾の乱鎮圧で頭角を現した曹操は、他の豪族を傘下に入れた。三国志演義に登場する武将や参謀は皆豪族で手勢を率いて配下になった。中でも呂布(りょふ)は、かなり強いキャラクターなのだが、内モンゴル出身で、騎射に優れた匈奴兵を多く持っていた故らしい。利用できるものは何でも利用する儒家的な道徳から解き放たれているのが曹操。黄巾軍の一部も配下に入れていた。まさに乱世の奸雄。しかし、統一を目指して南下、呉の孫権(孫堅の息子)と蜀の劉備軍には、なれない水軍で赤壁の戦いで敗れる。この敗北で、曹操は統一を諦め、三国時代となった。
劉備は四川省の成都を中心に蜀を建国したが、関羽は蓄財の神様(関帝廟)で三国志演義とはイメージが違う。諸葛亮を三顧の礼で迎えるが、劉備は漢の末裔ということになっているが、実は庶民の出で、黄巾の乱で名を挙げたとはいえ身分的には低い。(曹操も孫権も豪族)一方の諸葛家は大豪族(兄は孫権の大臣、又従弟は曹操の配下)で、家臣に迎えることで彼らと同等になれるというわけである。蜀の建国にあたっても諸葛亮を家臣にしていることは大きかった。
当時は、豪族の力が大きく、これをまとめる勢力がなかった故の三国時代であったわけだ。これが受験の世界史的三国時代。
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