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漢王朝の初期は、粗野で無教養な庶民出身の劉邦の仲間で宮廷を支配していたので、道家が流行した。粗野という点では、劉邦の皇后・呂后(りょこうが凄い。劉邦が晩年特にかわいがっていた戚(せき)夫人に対し、自分の子恵帝が即位した後、両手足を切断し、舌を抜いて、両眼を抉り出し、耳には溶かした銅を入れ、トイレの下に設けられていた豚小屋に入れた。恵帝にこれを見せ、「これがヒトブタです」と言ったらしい。恵帝はその後、閉じこもって酒浸りとなり死んでしまったという。
前漢の名君と言えば、第7代の武帝。劉邦(=高祖)以来、匈奴に対して融和政策をとっていたが、全面対決を挑むが機動力で劣るのは必定。そこで匈奴の捕虜から得た情報を元に、大月氏国と同盟を結び、東西から挟撃しようと考え、使者として張騫(ちょうけん)を送る。(前139年)しかし張騫は匈奴の捕虜となり10年を過ごし、やがて脱走。大月氏国にたどりつくが、交渉は失敗、再び匈奴につかまるが前126年帰国する。彼の情報を元に、衛青と霍去病(かくきょへい)が対匈奴作戦で活躍、張騫もオアシス都市を支配下(敦煌郡など四郡)に置いた。この結果、漢の領域は大きく西に延びることになった。また汗血馬(かんけつば)を手に入れるため、李広利による大宛(だいえん:フェルガナ)遠征も行われた。この汗血馬は、アラブ馬さらにサラブレットというふうに掛け合わされて進化したらしい。一方、朝鮮半島にも漢民族がたてた衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪郡など四郡を置き、南方でも南海郡など四郡を置いた。
武帝の時代の積極的な軍事活動は、劉邦以来たくわえられてきた国庫に支えられてきたが、ついに財政難になる。そこで、均輸法と平準法(空間と時間軸で物価調整を行いながら政府が増収する)、塩・鉄・酒の専売制を実施した。これは高度な情報収集、穀物の管理・輸送ができなかれば不可能な政策である。以後の王朝でも試みられることになる。…つづく。
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