2017年11月5日日曜日

イスラムのフィクフ考1

中田考氏の「イスラーム法の存立構造-ハンバリー派フィクフ神事編」を読んでいる。ここで論じられている「フィクフ」というアラビア語は、イスラム法(シャリーア)の体系を意味しているようだ。私の浅い理解で、イスラム法(シャリーア)は、その根幹にあるクルアーン、そして次に重要なムハンマドの言行録(ハディース)があって、ウンマ(イスラム共同体)における合意(イジュマ-)、さらにこれらを類推する(キャース)という体系がある。ムスリムは、神によって規定されたシャリーアの体系の中で自らの行動を選ぶことになる。クルアーンにある通りに、クルアーンに記されていないことはハディースにある通りに。もしこれらに書かれていないことはウンマの合意に従い、そこにもない場合は、類推するしかない、というわけだ。イスラムの法体系は極めて演繹的である。

この「フィクフ」は、ムスリムにとって重要なシャリーアの行動規範に関する論考なのである。中田氏は、イスラム法学者であり、この論考も法学なので、出来る限り精査された表現になっている。そこがまた新鮮なのであるが…。

第一章「フィクフとは何か」では、定義・シャリーアとの関係性・その発生と必要性・その主題・国家との関係・その平等主義・歴史・現在といったように詳細に論じられている。第二章「フィクフの基本概念」では、インジュティハード・ファトワー・フィクフの義務範疇・フィクフと人といった項目になっている。この第二章は実に面白かった。少し備忘録的に記しておきたい。

インジュティハードというのは、前述の自分自身の判断でフィクフの規範を演繹する作業のことである。語義は最善を尽くすことらしい。旅先で太陽や星の位置をたよりにキブラ(メッカの方向)を推測するのはインジュテイハードの本来の意味に近いわけだ。同様にどの瞬間においても、アッラーの御心に従うべく自分の知識と能力の限りにおいて、「最善を尽くすこと」はムスリムの義務であるというわけだ。しかし、フィクフの専門用語としてのインジュテイハード、つまりクルアーンとハディース(スンナ)から導き出され、理念的に全てのムスリムを拘束することを意図する「普遍的」な行為規範を定立する行為は、誰にでも許されるものではない。

当然、クルアーン・ハディースに精通した法学者で、様々な規定の構造(字句通り解釈すべきか否か、包括的か否か、明確か曖昧か、一般的か特殊か、無条件か限定的か、スンナの場合真性か否か、不特定多数へのものか個人か等)を理解し、イスラム史上のフィクフの規定に関する全ての争論と合意事項を知り、類推とその条件を知り、なおかつ、イエメンやシリア・イラクなどのアラビア語方言にまで精通する者となっている。当然、このような法学者は無条件ムジュタヒドと呼ばれ、スンニー派の4法学派の始祖たちを意味する。(もちろん、マレーシアの主流の法学派を確立したアル=シャーフィーイーも入っている。)したがって、一般的なムスリムは、彼らの判断に従うことになるわけだ。面白いのは、こういったフィクフの教養を欠く無学者は、理解できる範囲で知っているクルアーンとハディース(スンナ)の明文に従えばよく、それも不可能であればファキーフ(フィクフを修めた者:この認定機関もないところがイスラム的平等主義で凄い。)に相談することも許される。それが無学者のイジュデハードとなるそうである。

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