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1961年、ラーマンは英国の了解を取り付けたうえで、シンガポール自治領とボルネオ島のサバ・サラワク・ブルネイのイギリス植民地とマラヤ連をとの合併を提案した。英国は独立させたうえで検疫を残すことを意図し、ラーマンはマレー系住民が多いボルネオを得て、さらに多数を占める意図し、シンガポールはマレーシアに入ることで英国自治領から独立するという意図があって、利害が一致した故である。
シンガポールは、この頃、内政に関して完全主権を持ち、防衛外交は英国、立法議会の多数党が首相を選任して自治政府を運営していた。この立法議会選挙で勝利した人民行動党は、自治を強化しつつ、マラヤ連邦との統合を通じて独立を達成することを志向していた。
1962年、ブルネイではマレーシア統合反対の武装運動が起こる。英政府は、シンガポールから2000名のグルカ兵(ネパール人)を送って鎮圧している。サラワクでは、先住のイバン人と移民の華人がそれぞれ30%、マレー系が20%、ビユダ人が8%、その他の先住民が10%という人口比率であった。それぞれがマレーシアへの合併に関して民族集団と宗教別に政治集団が作られ、賛否が分かれていた。サバは1865年にアメリカ、1875年にオールトラリア、そして1877年にイギリスの北ボルネオ会社の支配下に入っていた。非ムスリムの先住民が50%、マレー系が18%、華人が24%という人口比であった。ここでもいくつかの政治集団に分裂したが、①宗教の自由、②州による移民の管理、③カダザン語の普及、④ブミプトラの特権のサバへの適用を条件に、マレーシア加入に賛成に回った。非同盟主義のスカルノのインドネシアはこの統合に強く反対したが、国連の世論調査結果でサバとサラワクの多数が賛成していることが判明、統合が実現する。
ところで、ラーマンがシンガポールとの統合のみではなく、サバ・サラワクを含めての統合を考えたのは、マレー系住民(先住民を含む)と華人の人口比の逆転をゆるしてしまうからであった。しかも、下院議席の配分の際、人口45.5万のサバに16議席、人口74.3万のサラワクに24議席、人口150万のシンガポールに15議席とした。これは、シンガポールが教育と労働についての自治権を留保するための妥協であったとされるが、不公正であったことはいがめない。またシンガポールは、財政負担上、国税収入の40%を連邦政府に収め、ボルネオ開発のため$5000万の拠出を求められた。
シンガポールでは、教育・訓練などでマレー人を援助するが、半島部のような公務員のクウォーター制やライセンス特権は否定した。1964年7月21日、ムハンマド生誕を祝うイスラム教徒25000人の行進が警察と争いになり、死者23人、負傷者454人を出す人種対立事件となった。その後マレー人居住区でも死者12人、負傷者109人の事件が起こる。連邦政府とシンガポール州政府の間で「敏感な問題」を取り上げない、対立は2年間棚上げすることが決まられたが、和解は思うように進まなかった。連邦政府の進める「マレー人のマレーシア」に対して、マレーシアの人民行動党は「マレーシア人のマレーシア」を訴え、非マレー系も平等に国家形成に参加することを訴えたが、各民族間の経済格差がそれを許さなかったといえる。
ラーマンも「流血の事件を避けるために、シンガポールの分離はやむを得ない。」との結論に達する。しかし、この民族間の対立は、1969年5月13日の事件へと繋がっていくことになる。
…マレーシアの国旗の横線は14本である。星条旗同様、独立時の州の数を表している。半島部の11州とサバ・サラワクの2州。1本多いのは、分離したシンガポールのものである。現在は、クアラルンプールが特別区なので、これを1本に数える場合もあるとか。とは、先日の国立博物館でのガイドのWさんの受け売りである。
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