ラーマン首相の故郷・ケダ州の風景 http://www.malaysiasite.nl/kedaheng.htm |
14世紀にマラッカ王国がイスラムを受け入れ、15世紀にはアラブ、インド、中国などの商人が4万人も住んでいたという。すでにスズを出荷していた。16世紀にポルトガル、17世紀にオランダ、19世紀にはイギリスとマラッカは支配を受けるが、その間にマラッカ王朝の(血縁的な有無にかかわらず)正統性原理をもつ9つのイスラム王朝が出来上がる。マレー人は、スルタンのもとに統合され、大多数はコメを中心とする農耕社会を築いてきた。
アヘン戦争(1840年)後、中国人の海外移住が認められ、広東・福建を中心に、客家、潮州、海南から華僑が移住してくる。彼らは、最初はスズ鉱山の労働者が多かったが、商工業者、あるはスズ鉱山やゴム園の経営者として成功する者も出て、マレー系の人々より比較的に経済的に優位な立場にたったが、その多数は下層に属していた。
インド系は、主にマドラス州から、ゴム農園の労働者として移住させられてきたタミール系の人々が主流で、下層のカーストに属しておりマラヤにはその制度を持ち込まなかったとされる。
この複合社会が形成されたのは、「マレー連邦州」であり、「海峡植民地」(ペナン・マラッカ・シンガポール)では中国人とインド人が多数をしめていた。「マレー非連邦州」ではマレー人が圧倒的多数を占めていた。…ここがマレーシアの複合社会理解には最も重要だと私は思う。
マレーのナショナリズムは、カイロから帰国したイスラム指導者から始まる。イスラムの覚醒ともいうべきものであった。時代はWWWⅠ後。民族主義の台頭とロシア革命の成功などの影響も大きかった。マレー人最初の政治組織ができたのはシンガポールで、マレー人の地位向上を訴えたが、半島部では必ずしも受け入られなかった。半島部で英語教育を受けたマレー人エリートは、王族・貴族の子弟が多く、植民地行政の補助者の地位にあったからである。しかし、世界大恐慌の影響でゴムの価格が下落し、マレー人ゴム小農の生活悪化と中国人側の政府・行政への参加拡大を目指す要求の高まりを受けて、①アラブ教育を受けたイスラム改革者、②マレー語教育を受けた急進的なインテリ、③英語教育を受けたエリートの間でマレーのナショナリズムが交錯しながら発展していく。この状況は「マラヤの万華鏡」と呼ばれた。
中国系のナショナリズムは、本国の影響が強い。孫文がシンガポールや、クアラルンプール、ペナンを訪れ、国民党の種子を植えていった。この孫文の影響(三民主義)は大きく、中国人としての帰属意識を高めた。一方、中国共産党の影響もあった。海南人を中心に南洋共産党が生まれる。この2つの非合法政党が対立と協調(国共合作などの中国本土の動きに連動する。)を続けていた。この両党の運動は、マレー人、インド系とはほとんど関係なく進められ、エスニック・アイデンティティを強化していく。
国立博物館のマラヤ共産党の展示 マレー系・インド系には影響しなかった。 |
…要するに植民地化のマラヤ連邦では、マレー系、中国系、インド系それぞれが、全く交わらないままに、エスニシティを基礎にした政治運動が動き始めていたということになる。マレーシアに9カ月いて、その辺の多文化共生の根底にあるものとは、実はこういう溝を互いに認識していることなのかと、薄ボンヤリであるが感じる時がある。
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