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橋爪氏が、キリスト教における「罪人」と対比して「イスラムは本質的に”なんちゃって宗教”ということになりませんか?」と質問を投げかける。救われ方の問題である。中田氏は、こう語る。「イスラムでは、信仰と行為は別ですので、信仰をもったから罪人でなくなるわけではありません。信仰したからといって罪を犯さなくなる、というものではありませんし、罪を犯したからといって、信仰さえ残っていれば”なんちゃって信者”ということにはなりません。」
次に中田氏は、天国にいくための行為の善悪の点数計算というシステムを説く。結論的には、罪人でも信仰さえあれば天国に行けるが、似非信者はもともと信仰がないので天国に入りようがないわけだ。橋爪氏は、キリスト教では、「信仰義認」で、そういう善行による救いは全く認められていないと批判する。これに対し、中田氏は、ハディースを2つ引いて、人間の行為によって天国に入るのではない、ひたすら礼拝するという行為も含めて、それが出来ること自体が神の慈悲であるという考えがイスラムに内在していると説く。橋爪氏は、善悪の点数計算のシステムと神の慈悲論は論理的に矛盾していないかと突っ込む。(このあたり、なかなか緊迫感があって面白い。)
結局、イスラムの救いについて中田氏は次のようにまとめている。「イスラムは、すごく現実主義の宗教でもあるので、正しいか正しくないかというふたつのカテゴリーで考えなくて、正しいもの、許されているもの、許されないもの、というだいたい3つ、あるいは5つぐらいの見方をします。点数計算で天国に入れる人間もいる。これも許されているのだけれども。本当の理想はそうでないというような二段階の構えにしているのがイスラムの考え方です。」
ところで、中世では、イスラムの教えに反さないというネガティブな形で普通の人間と違っていて偉い人だ、聖者だと思われる人間が出てきた。ポジティブに証明する方法はないが、ネガティブにその人の教説とかが認められて、信じる人間は信じ、信じない人間は信じないというカタチで、お墓が出来、そこにお参りする人間もいっぱいいた。それは間違っている、ということで、ワッパープ派という今のサウジアラビアにいるプロテスタント的な偶像破壊も人々が出てきて、その流れを引いているのが今のIS、ということになる。と、またまたISに回帰してきたのだった。
私はことさら、中田先生がISを支持しているとは思わない。今の領域国民国家したイスラム世界に、ISがアンチテーゼを投げかけている意味の大きさが、ついつい強調されてしまうのだと考えている。
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