さて、そろそろ中田考・橋爪大三郎の対談「クルアーンを読む」(太田出版)を7割方読破したのでエントリーしていこうかと思いだした。一度読んで、もう一度線を引き直したりしているので、時間がかかっているのだが、この本には、それが相応しい読み方だと私は思う。書評というにはおこがましいけれど、備忘録的に重要な箇所を整理しておきたいと思っている。とはいっても、かなりの量になるような気もする。
まずは第1章。「正典」という概念の、橋爪流の社会学的考察から始まる。(私は、この橋爪氏の「宗教社会学」ではない「社会学的な比較宗教学」の見方が好きだし、非常に参考になると思っている。)橋爪氏は、M・ウェーバーの4大文明のアプローチを引用しながら、キリスト教文明・イスラム教文明・ヒンドゥー教文明・中国文明の共通点を、「テキストがあること」としている。
このテキスト、すなわち正典(英語に直すとCanon)とは、①書物である②正しさの基準である③正典と、正典でないテキストの区別が明瞭である④文字なので、勝手に書き換えることができない、といった定義ができる。
次に正典がどの言語で書かれているかという問題。キリスト教は、聖書の翻訳を許したために各国の国民語ごとの聖書がある。人々の聖書の理解は進むかもしれないが、普遍性が失われた。中国の四書五経などの経典の場合、初めから正しい表音システム(中国語は北京語や広東語など読み方が異なる)が存在しない。(表意の)文字だけが存在する。文字と音声の結びつきを断ち切っている故に、文字にアクセスできる知識層だけが特権的に政治や宗教を支配できた。ヒンドゥー教では、サンスクリット語を読み書きするのはバラモン階層だけで、それに隷属する体制が作られたが、政治・軍事はクシャトリア階層が担当するという住み分けが成立している。
それに対して、イスラム教は翻訳や文字にまつわるどちらの可能性も慎重に排除して、人々の共同性を壊さないようにした。見事な戦略であるとの結論が、橋爪氏より出される。
中田氏は、キリスト教について、そもそも神学的にイエスが自身が言葉(ロゴス)である(=神の言葉はイエス自体である)という立場故に聖書ですら重要ではない。クルアーンとは全く位置づけが違う、述べる。文字で書き留められ限定されるのが正典であるけれど、キリスト教では固定されていないので共通の理解が同じ国民ですら持てなくなる。正典を読める人間が力を持つのが、もとは全ての文明圏の在り方だったのが、(キリスト教圏では)なくなってしまった。なくなってしまったことによって、ナショナリズムが現れてきて、さらに民主主義という、正典を読める人だけが権威を持つのではなくて、誰でも同じであるという考えが出てくる、と述べている。
のっけから、世界の根幹に関わるような凄い展開を見せる本なのである。今日の画像は、先日行ったKLのイスラム美術館のコーランコレクションから。
2016年6月4日土曜日
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