2016年6月25日土曜日

中田・橋爪「クルアーンを読む」12

ウマイヤド=モスク
http://www.sakaguti.org/
honmon%20page/j
ordan%20lebanon/
damascus/damascus.htm
イスラムの歴史観についてのエントリーを続けたい。最後の審判の話である。いきなり、最後の審判の前に世界が滅び、全ての生き物が天使も含めてみんあ死ぬ、と中田氏が述べると、橋爪氏が「ちょっと待ってください。キリスト教では、生きている者は生きたまま裁かれ、死んだものは復活して裁かれる(注:おそらく新約聖書の黙示録による)のです。イスラムでは、生きている者もいったん全員死ぬんですか?」と問う。「ええ、一回全員死にます。」「なぜですか?」「そう書いてあるからとしか言いようがないですね。」…と、このやりとりもまた楽しい。

その前に歴史の中で特別な時期というか、通常の歴史から外れてしまうフェーズがある。予兆から始まって、超常現象の世界になってしまう。それはイエスがまた降りてくる。(これは、クルアーンには、イエスは生きたまま(天に)上げられたとあるからで、ハディースに、再臨の話が出てくるらしい。シリアの白いミナレット、塔に降りてくるとある。シリア人は、ダマスカスにある最も古いウマイヤド=モスクに降りてくると信じているらしい。…この話、かなり面白い。)ちなみにムハンマドは再臨しない。

サラフィー(復古主義者)とスーフィー(神秘主義者)の間で激烈な議論となっていることだけれど…と前置きがあって、イスラムの死後の話になる。人間が死ぬと、肉体が死んだあとしばらくは見えている範囲では死んでいるが意識は残っていて、それでお墓に入った後、死の天使がやってきて、いろいろと生前のことを聞かれる。ちゃんと答えられれば楽な思いができ、そうじゃないといじめられたりする。その後すぐ眠りにつく。(「いじめられた後眠るんですか?」と橋爪氏。これは私も同感。)その後、ずっと寝る。死んでいると言っても同じ。最後の審判の時にむっくり起き上がる。これが基本だが、中にはこのプロセスをぶっ飛ばして、天国へ直行する人間がいる。これが殉教者。クルアーンには、殉教者は死んではいなくて天国に既に入っていると書かれている。イスラームの人類観では、預言者が最も偉くて罪を犯していないし最高の人間なので、殉教者レベルで天国に直行ならば、当然普通の人々と同じように寝ているのはおかしいという議論がある。

ところで、そういう預言者とか殉教者とかは天国に生きているわけで、それと何らかのコミュニケーションができると信ずる人々がスーフィーで、彼らはお墓参りに行って「預言者様、どうか私のことを神様によく言って下さい。」とか言う。で、これはイスラムではない、多神教だと、お墓を壊して回っているのが、(毎度おなじみになってきた)ISである。

橋爪氏の質問。「Q:殉教者には最後の審判はない?」「A:バキューンと撃たれた時に、体は死んでいるように見えるけれど、そのまま生きたまま天国に直行。そのジハードが最後の審判の前倒し。」…これも凄い。ジハードにおける死の考察そのものである。

イスラムの歴史観について、中田氏はキリスト教が最も歴史を重視しているといえると主張する。イエスのための歴史で、その歴史的な一点(復活)だけが重要とされている。ユダヤ教では、出エジプト。両者とも、歴史的な祭事が極めて多い。

それに対して、イスラムは断食明け(これは全く歴史性はない。)と巡礼明けの犠牲祭(アブラハムがイシュマイルを犠牲に捧げようとしたことにちなむ。これは唯一イスラムで歴史性がある祭事。)だけである。ムハンマドの生誕祭は、もともとなかったし、ISなどは偶像崇拝だと否定している。イスラームは、過去の歴史にそれほどこだわらない。それは普遍性が高い(どの地域・民族でも通用する)と言える、というわけだ。…なるほど。

…先日のコーランデー。調べてみたら、マレーシアとブルネイだけの祝日だった。マレーシアはイスラムを国教としつつも、華人やインド人の仏教やキリスト教、ヒンドゥー教の祭事も祝日にしている。政府は実に気を遣い、苦労しているよなあ、と推察する。

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