2016年6月5日日曜日

中田・橋爪「クルアーンを読む」4

まるで、トーラーのような…。イスラム美術館の展示物より
さらに、中田考・橋爪大三郎「クルアーンを読む」(太田出版)の書評、というより備忘録的エントリーの続きである。ところで、この本の副題は「カリフとキリスト」となっている。クルアーンに矛盾があるか?という橋爪氏の問いは、実に面白い。キリスト教は、旧約・新約聖書の矛盾や、旧約聖書内の書物にも矛盾がたくさんあって、「不条理なるがゆえにわれ信ず」という側面がある。この立場から対比を促しているわけだ。

それに対して中田氏は、クルアーンが神の啓示であると行った際、メッカの住人は信じなかった。そこで、「これがもし神のものでなければ中に矛盾があるであろう。」と言っている。だから、矛盾はない、というのがイスラムの立場である、と述べている。もちろん実際には一見すると矛盾すると思われる箇所もある、しかしそれを解釈によって解決するのが神学者の仕事であると言う。たとえば、クルアーンには天の1日は1000年と(第32章5節)と5万年(第70章4節)とふたつの説明がある。これは長い時間の比喩、あるいは天のレベル(天には何階層ものレベルに分かれているという)の違いによるものというような解釈がされているそうだ。

そこで、橋爪氏は、クルアーンを合理的だと認識した上で、アリストテレス論理学を受け入れることが可能か?と問いかける。これは、キリスト教がアリストテレス論理学を受け入れたスコラ哲学が、あたかも木に竹を継いだようなモノになった故に、神学と哲学が分離した。このキリスト教と哲学の関係と、イスラム教を比較しようとしているわけだ。

それに対し中田氏は、哲学は、イスラーム世界、当時のスンニー派世界の中では否定される、というのが定説で、実際そうであると述べる。ただし、ここでいう哲学とは我々が思うような一般論としての哲学ではなく、否定されているのはプラトニズム的(プラトンのイデア論のような)な形而上学を前提とした哲学で、(アリストテレス的な)論理学あるいは論理学的に考えるということは何の問題もないということだそうだ。

橋爪氏がこの2つの質問で得たものは、キリスト教に比べて、極めてクルアーンは合理的である、ということである。

次に、クルアーンの区分としての、メッカ啓示とメディナ啓示について語られる。メッカ啓示の方が歴史的には早い。こちらは、来世の話や神学的、道徳的な話が中心、メディナ啓示は国家ができたので法的な啓示が増える。メッカ啓示の方が終末意識が強く、緊迫感があるという。

およそ、メディナ啓示の長い章が前に、メッカ啓示の短い章が後ろにあるけれども、ひとつだけメディナ啓示が入っていたりするらしい。また12章のユースフ章だけは物語形式であったり、第55章のラフマーン(慈悲深きお方)という章は、最後は全部「アーン」という言葉で終わっていたりして別格の趣があるそうだ。

また、第9章だけは、他のクルアーンの章の全ての始まりの句「慈悲あまねく慈悲深きアッラーの御名において」で始まらない。この章は不信仰者との絶縁と宣戦布告、ジハードの義務化などが内容であるために、慈悲の言葉がないという説と、もともと第8章とひとつの章だったので冒頭の句がないとういう説があるそうだ。

仏教教典の最初の句、「如是我聞」みたいで、私などは、大いに興味深いと思うわけだ。

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