2016年6月4日土曜日

中田・橋爪「クルアーンを読む」2

中田氏は第2章の冒頭で、こういう極めて示唆に富んだ話をしている。
「イスラーム学の難しさというか、異文化理解の難しさというのは、単純にその知識がないということではなくて、誤解してしまうことにあるのです。われわれは、なんでも最初に理解する時には、自分の手元にあるものに引きつけて理解します。それは仕方ないことですけれども、その最初の理解の手掛かりになるものは、実は次の段階に進むと、逆に真実を隠す理解の妨げになってしまう。最初に持ってしまった近似的な理解が邪魔になって、あるいはその枠組みから離れなくなって、対象を理解できなくなってしまうことがよくあります。」

この後、氏はクルアーンの真の意味について語るのだが、このことは日本語では説明しようがないことを述べている。どうしても前述のような近似的理解の限界があるのだ。次に礼拝(仏教ではライハイだが、キリスト教やイスラム教ではレイハイ)のカタチについて。

実は、私は随分昔に香港のモスクでパキスタン人に礼拝を仕方を見せてもらったこともある。その動作を解説したアラビア語の本(子供用だけど…。)も持っていて、それなりに知っているつもりだった。中田氏は、この本の中で意外に知られていない(スンニー派の)礼拝のカタチを教えてくれている。(シーア派の礼拝との違いは後に出てくるのだが…。)

5回の礼拝で、クルアーンを声に出して読む場合と声に出しては読まない(心の中で読む)場合があるとのこと。声に出して読まないのは正午から日没までに2回ある礼拝。他の3回は、声を出して読む。で、それぞれの礼拝では、まず最初に第1章を読むとのこと。ファティーハ(扉)という章である。(もちろんアラビア語で唱える。)

慈悲あまねく慈悲深きアッラーの御名において
称賛はアッラーに帰す、諸世界の主に
慈悲あまねく慈悲深き御方、
裁きの日の主宰者に。
あなたにこそわれらは仕え、あなたにこそ助けを求める。
われらを真っすぐな道に導き給え、
あなたが恩寵を垂れ給うた者たち、(つまり)御怒りを被らず、
迷ってもいない者たちの道に。

最後に、「アーミーン」(ヘブライ語で言うアーメン:かくあれかし)と唱える。その後さらに、任意で短い章を読むか、長い章の3節以上を読むらしい。たとえば、中田氏が例に挙げた第112章はかなり短い。4行くらいである。

こういう細かいイスラム学の基礎知識は、実は今の私にとって極めて重要なのである。なぜなら、実際にムスリムのマレー人の生徒たちを教えているからである。最初の中田氏の箴言ではないが、一から勉強し直していこうと思っている。このあたりの話は別にエントリーしたいと思う。書評その2はここまで。(上の画像もイスラム美術館でのものである。)

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