2010年7月31日土曜日
大乗仏教の方程式を省くなかれ
今日は倫理の補習であった。英語の補習が1コマ目にあったので、やむを得ず3コマ、4.5時間でインド哲学から仏教をやった。インド哲学は、ウパニシャッド哲学が中心となる。輪廻・業などの思想は、「日本翻訳多層文化」の中でも、ベース中のベースである。また”梵我一如”という宇宙との一体化も、私は日本のアイデンティティと化していると思っている。川端康成がノーベル文学賞を取った時の記念講演『美しい日本の私』こそ、この象徴的な言霊である。インドは面白い。柳田聖山の「禅思想」という本に、行き倒れの死体をひたすら見つめるサンニャーシン(出家修行者)の話が出てくる。生徒にインドを理解させるのには最適である。ヨーガの話もいろいろする。基本的に宇宙との一体感を求めて修業するのがヨーガである。”人間は空を飛べるか”という、私の滑らない話シリーズもある。昔先輩がインドのマハラジャに、空を飛ぶ修行者を見に連れて行ってもらった話である。広大な草原に隠れた先輩は、オレンジ色の袈裟をきた修業者集団が、すごいスピードで走り去るのを見せられる。別に空を飛んでないではないか!とマハラジャに言うと、彼らが駆け抜けた後を見せてくれた。すると草原で見えなかっただけで、向うまで20mはあろうかという断崖絶壁があり、実際に彼らは向うに去っていく。彼らは、自分を動物に同一化し、「私はインパラ~」とか「私はチーター」とか、精神的に同一化するので飛べるのだという。いわゆるマントラ・ヨーガである。インドは面白い。…『我は梵なり』
仏教は定義から入る。仏陀が説いた教え、仏陀となることを説く教えという2つの定義がある。この仏陀、ゴーダマ・シッダルタたる釈迦という義と、三世十方の諸仏の義がある。しかしながら、共に最高の真理である法(ダルマ)を悟った人間であることを強調する。で、釈迦の生涯。出産の話から四門出遊の話やアーラダ・カーラマ、ウドラカ・ラーマプトラの話やスジャータの話など面白い話は満載である。初転法輪での四諦八正道は、センター・スキルである。かなり詳しく具体的に話すことで理解を深める。さらに、センターには出ないけれど、四法印(諸行無常・諸法無我・一切皆苦・涅槃寂静)を説く。雪山童子の無常偈(いろは歌の元ネタ)なども教える。さらに、「縁起(因縁)」特に十二縁起を教え込み、四諦とともにこれらを解析しながら関連を考えさせるのである。こんなことは、センター試験では絶対出ない。だが、仏教が非常に論理的な構造を持っていることを体験的に学習することの意味は大きい。
さらに、仏教の発展を上座部・大衆部など歴史的な南伝仏教・北伝仏教についても語る。なんぼでも面白い話は出てくる。さて、ここで、やっとこさ今日の本題である。
センター試験では、竜樹(ナーガルジュナ)の「空」については問われることがある。これは大乗仏教の根本思想である。教科書などでは、結局他が割愛されているので、高校生からすれば暗記して終わりである。私は、そういう教え方はしたくない。結局のところ、空という「存在論」なのである。とくに人間の精神・心は「空」という有でも無でもない存在の仕方をしているのである。大事なのは、この竜樹の思想を、世親が「唯識」で発展させ、分析したことである。(ここまで普通、高校では教えない。)人間の心の構造を、目・耳・口・鼻・触といった五識、これに意識を加えた六識(これは六根などとも呼ばれる。六根清浄の六根である。)を最上部とし、この下に未那識という無意識層、阿頼耶識というさらに深部の無意識層などに分析した。フロイドもユングもまっ青である。ここに、最終兵器、馬鳴が登場する。<今日の画像、大乗起信論の著者である。>馬鳴(めみょうと読む)は、この世親の唯識の最深部に仏の因が内蔵されていると説いたのだ。これを如来蔵(にょらいぞう)という。実は、この如来蔵という思想こそが、大乗仏教の根幹なのである。ところで中国は現実的な国である。教相判釈という各宗派の法論対決を行い、仏教の宗派チャンピオンを決定した。それが、法華経を中心にすえた天台宗なのである。法華経には、方便品第二で、十如是が説かれ、先ほどの心の「空」性を如是性として捉え、さらに肉体など色を如是相として「仮」として捉え、これらがうまく結合している様を「中」、如是体として捉える。これを『空・仮・中の三諦』というのだが、ここに大乗仏教の存在論の完成をみるのである。だから、法華経はすごいということになっている。法華経の面白い話もする。法華経の七譬から、”無量宝珠の譬え”である。長者の家に古い友人が遊びにくる。何事もうまくいかないと愚痴をこぼす。酒や食事で歓待した長者は彼に何でも願いがかなうという無量宝珠をあげようとするのだが、彼は酔いつぶれてしまう。そこで彼の襟にその無量宝珠を縫い付けておいた。長者は翌朝用事のため早く家を出る。友人は襟に気付かずに長者の家を辞す。数年後さらに苦しんだ姿で現れた友人に、長者は驚き、なぜ無量宝珠を使わなかったのかと尋ねる。彼の古びた襟に無量宝珠はちゃんとあったのに…。この無量宝珠こそ、人間(凡夫)の心の奥底に内蔵された「仏」なのである。まさに『如来蔵』を説いているのである。
この空ー唯識ー如来蔵という大乗仏教の方程式が解らないと、なぜ最澄が天台宗を唐から学び、比叡山に戒壇を設立しようとしたのかが解らない。さらに、この天台宗の、”仏を念ずるという修業”から易行(たやすい修業)として発展した唱名念仏(浄土宗や浄土真宗)の流れが生まれ、同じく天台の禅定波羅密という修業から生まれた禅宗が生まれ、密教を入れた天台宗を批判する形で日蓮宗が生まれ…といった鎌倉新仏教の流れが解らないのである。日本の仏教は、本来人間は仏なのだという大乗仏教のスタンスに立っているのだ。たしかに高校生には難しいかもしれないが、5分に1度笑わせながら教えることは可能である。
長くなった。先日、昨年度まで本校”首席”だった某養護学校教頭のM先生(と言っても私の舎弟だ!)からメールがあり、ブログで”倫理のセンター試験への道”を紹介するなら、「センター試験の点数がおもしろいほどとれるシリーズ」の紹介もしてくださいよ。と言って来た。そもそもこのシリーズは、M先生が数学の参考書として生徒に紹介していたものなので、愛着があるらしい。私は中身はともかく表紙が気に入らない。が、せっかくなので画像も入れて紹介しておきたい。表紙は最低、中身は現在のところ最高の参考書である。数学のシリーズもね!
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