2016年3月7日月曜日

日経 ロシア人気作家の怒り

http://www.okadaev.com/akunin/erast/erast.html
日経の今日の国際面の「地球回覧」が面白かった。ロシアの人気作家ボリス・アクーニン氏(59)は、長らくモスクワで散策しながら構想を練っていたそうだが、今は創作の場をロンドンに移している。というのも、モスクワにいると「怒りがこみ上げるようになった」からだという。

アクーニン氏は、元日本文学研究者で、「悪人」からペンネームを着想したそうだ。(笑)帝政ロシア末期を舞台にした探偵小説「エラスト・ファンドーリンの冒険」が1500万部売れている。主人公のファンドーリンは、ロシア版シャーロック・ホームズと呼ばれ、英国紳士に近い存在。つつしみ深く己の理想や善悪の判断に従う。調和を重んじる日本的な面もある。これらは、ロシア人に欠けている資質で、それを体現しているがゆえに人気があるのだ、とアクーニン氏は語っている。(凄いな。)

彼は、11年末反プーチン運動に参加したが、12年大統領に返り咲き。14年クリミア半島編入。一気に8割の支持率を得た。「問題はプーチンではなく人々の精神性にある。」他国が恐れる偉大な国の市民であるという「帝国主義の麻薬に酔っている。」と指摘。

…チェルノブイリの本を読んだとき、そういうロシア人(ソ連邦下のベラルーシ人・ウクライナ人も含めて)的な感覚を少しばかり理解した。WWⅡでドイツに勝利したことを、かなり経っても誇りにしているトコロや、爆発した発電所の屋上にソ連国旗を何度も掲げるクレイジーな行為など、単に命令故とはいえない民族的資質としか言いようのないものを感じた。

アクーニン氏は歴史の執筆にも力を注いでいる。何故ロシアは自由化の試みが常に強権支配の復活で終わるのか、その問題の根源と処方箋は過去にあると信じ、9世紀からの歴史を紐解く。ロシアの歴史はプロパガンダに利用されてきた。客観的な視点を読者に示したいと言う。現在、3巻で70万部読まれている。彼は、現在のロシアを1907年から17年と重ねている。各地の反政府運動や暴動が沈静化した1907年からロシア革命が起こった19017年である。市民社会の挫折、経済危機、外敵を求め大衆の目を国内問題からそらすといった兆候をもとにしているらしい。彼は、もはや平和的な民主化のチャンスはないと考えているという。

…日本もアメリカも、そしてロシアもそうだが、なにか歯車が狂ったような反知性的な政治状況が起こっている。アクーニン氏が、そのアンチテーゼとしての小説や歴史観を提示しているというのは、実に面白いと思う。私はこういう推理小説を読む習慣はないのだけれど、ちょっと興味がわいた次第。

2016年3月6日日曜日

「長ぐつをはいたネコ」を見る。

NHKで昨日の夕方だったか、「長ぐつをはいたネコ」を見た。ペロー童話とは、あまり関係なくて、シュレックシリーズのスピンオフ作品だった。
とはいえ、アメリカらしい優れたエンターテーメント作品だった。昨年の黒猫チューチュー以来、「猫の気持ち」みたいなことをだいぶ学んだので、そういうことも使った演出(砂かけダンスなど)が特に面白かった。

とはいえ私にとっては、昔の東映作品「長靴をはいた猫」の方が面白い。これは、ペロー童話をもとにしていて、「♪ビックリシタニャー・ビックリシタニャー」で始まる主題歌とともに、極めて優れた作品だと思う。特に、ツインタワーのようになっている城のデザインなど、子供心に凄いなと思ったものだ。この頃から、日本の(というより東映の)アニメ作品は名作を残している。私は、特に「長靴をはいた猫」と「わんわん忠臣蔵」が大好きである。

当時、東宝と大映はゴジラやモスラ、ガメラを始めとした怪獣映画へ、東映はアニメへと違う子供路線を進んでいた。今の宮崎駿監督などの日本のアニメ映画の興隆の源は東映にあるわけだ。たまたま見たアメリカのアニメから、昔話になってしまった。たまにはこんなエントリーもいいかな、と思う。

2016年3月5日土曜日

アフリカの風に吹かれてⅣ

ジブチの難民キャンプ http://www.mayq.net/kimura/daradara14.html
先日のエントリーの続きである。「アフリカの風に吹かれて~途上国支援の泣き笑いの日々」(藤沢伸子著/原書房:12年7月20日発行)、今日はジブチ編。実は、ワンフェスのAMDAブースでこの本を手にとった時、帯に書かれていた「ジブチ」という国名に大きく惹かれたのだ。2003年夏、JICAの教師視察派遣でケニアに向かう前、研修のため訪れた東京のJICAでジブチの研修員さんと会ったことがある。かなりレアな経験である。地理の教師故にジブチの位置や基本情報を知っていたことが幸いした。「紅海のそばだね。」と言うとめちゃくちゃ喜んでくれた。おそらくジブチという国を知っている日本人は、当時ほとんどいなかったのだろうと思う。最近は、ソマリアの海賊対策で、ジブチに海自が拠点を置いているので知っている人も増えたように思う。研修員の彼は、砂漠化を防ぐために日本に学びに来ていた。とにかく、ジブチについて書かれた日本語の本は決して多くない。実に貴重な記録だ。

ジブチはエチオピアの外港で、旧フランス領である。だからフランス語圏。ジブチの人々は、エチオピアやソマリアをルーツにしている。だから目鼻立ちがはっきりして整っている。(ケニアでもソマリ人はすぐ判る。)女性はブーブーという大きめのワンピースを身にまとい、美しいフランス語を話すという。一方、ソマリ語やアッファール語という現地語は、遊牧民の言語ゆえに荒々しい響きがあるらしい。この地には、ソマリア難民が9割、エチオピア難民が1割をしめる計3箇所の難民キャンプがある。著者はUNCHRのパートナーとしてAMDAがつくった難民キャンプの診療所のディレクターとして赴任した。

ネパールから来ている、ベテランのナビン医師の話。ブータン人難民キャンプにも数年間勤務していたという。、AMDAなどのNGOが彼のようなネパールやバングラディシュの医師を派遣する理由として、人件費が安いのもあるが、このような施設や機材の整っていない医療施設で聴診器と血圧計のみで診察できること最大の理由らしい。先進国の医師では難しいのだという。しかし途上国出身の医師でも、ここの環境に音を上げて辞める人が多いとのこと。そんな中、3年の任期を全うしたナビン医師は心身ともにタフな人物で、難民の患者の甘えた要求にも毅然と接し、一方で冷たくあしらうようなこともない。粘り強く説得し治療にあたった。彼にはずいぶん助けられたと著者。

ジブチの難民キャンプは、紛争が起こってから15年以上もたっているので、「生きるか死ぬか」といった悲壮感はない。ソマリ語で、Yesに当たるのは「ハー」と言うらしい。「薬品のリストちゃんと作れた?」「ハー」「在庫まで調べた?」「ハー」著者は、ジブチの暑さとともに、彼らのだるそうな返事に拍子抜けしたという。(笑)ジブチは、ザンビアほど難民が都市に出ていくことに目くじらをたてない。普段は、のんびりしているのだが、時として遊牧民の激しさが吹き出ることがある。ナビン医師は、その辺をよく心得ており、人としての尊厳を十分に守りつつ、しかも凛としてソマリア難民に接していたようだ。彼に診療所は何度も守られたという。

一方、エチオピア人はほとんどが政治亡命による難民だった。独学で4カ国語(エチオピア語=アムハラ語・ソマリ語・英語・フランス語)を話す、アレムという青年ボランティア・スタッフがいた。彼のおかげで通訳がスムーズになったし、懸命に診療所を支えてくれたのだそうだ。
彼は著者が赴任中に、カナダ移住の申請が認められる。宝くじをあてるようなもので、なかなか、こんないい話はないそうだ。彼が幼い頃、難民キャンプで英語を教えてくれた青年教師がいて、その教師もカナダの移住審査に合格しキャンプを去っていったのだという。いわば、師の教えをバトンとして受け継いだといってよい。この吉報(診療所での働きも大いに評価されたらしい。)は診療所のボランティア・スタッフに大きく波及し、エイズ予防キャンペーンの時など大いに活気づいたのだという。こういうバトンの継承は良い方向に難民キャンプを導いていく。

…ジブチを世界で最も暑い国と著者は書いている。読んでいて、難民キャンプでの様々な苦労が深くしのばれる内容となっている。ソマリランドの本などを読んでいても、あるいは京大の文化人類学の本を読んでいても、やはり遊牧民的なる文化との接触における軋轢は、我々日本人にはかなり消耗を伴うものなのだろう、と思う。

2016年3月4日金曜日

毎日 在ドイツ難民 改宗問題

毎日の夕刊に、驚愕のニュースが載っていた。見つけたのは妻である。2人の夕食の話題はもっぱらこの話になった。一言で言うと、ドイツにたどり着いた難民の中で、独立系のプロテスタント教会で、イスラムからキリスト教に改宗する人々が出ているという話である。

「イスラムって、改宗は厳禁やんなあ。」と妻。「死刑のところもある。」と私。新聞には、この改宗者、イラン人が8割、アフガン人が2割だという。どちらも、強制送還され改宗がバレれば、たしかに生命の危険があると思われる。と、いうことは、それだけ難民申請には有利であることは確かだ。

実際、この教会の改宗者で強制送還された人はいないそうだ。しかし、難民施設では「裏切り者」として脅迫された人もいるようだし、ドイツ国内最大のプロテスタント(おそらくルーテル派だと推測される。)の牧師は、「難民支援を布教手段にしてはならない。」「洗礼は神聖な行為であり、他宗教を尊重する観点からも、支援とは分けるべきだ。」という批判も起こっている。それに対し、独立系教会は、9割以上の信者が難民認定後も教会に通い続けているとして、洗礼の妥当性を強調している。

…うーん。プラグマティックに考えれば、難民認定のための方策として、キリスト教への改宗はかなり有効な策ではある。信教の自由という人権からも妥当なものである。この独立系教会は支援を拒まない「駆け込み寺」的存在であるそうだ。遠く離れた日本でブティストの夫婦が、論議したところでどうにもならない。先日もエントリーしたが、難民の人々の立場に立つことは極めて難しい。ここはエポケーするしかないか、と。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160304-00000030-mai-eurp

2016年3月3日木曜日

日経 「白河以北一山百文」

日経の文化面に、「影法師」という結成40年を迎えたフォークソング・グループの話が載っていた。メンバーは入れ替わっても山形県を拠点に東北人の思いを歌にしてきたという。91年、「白河以北一山百文」という曲をつくった。東北自動車道が完成し、首都圏のゴミが東北に押し寄せた。故郷は単なるゴミ捨て場なのか。そんな憤りを訴えた。タイトルは戊辰戦争の時、官軍の兵士が言ったとされる言葉に由来する。白河の関以北の土地は、一山百文の価値しかないという意味だ。流入するゴミは、その頃から続く中央と東北の関係を表しているように感じた。声を上げなければ変わらない。
そして、2011年3月11日、東北を震災が襲った。「影法師」のリーダー青木文雄氏は、濁流が宮城や岩手の田畑、家、車を容赦なく飲み込んでいくのを呆然とテレビで見ていた。翌日、福島の原発事故が起こった。また東北が苦しみを背負うのかー。「白河以北一山百文」をつくったときと同じ憤りと無力感が襲ったという。と、いうのも、以前(震災の10年前)テレビで「白河以北一山百文」を歌う機会があったのだが、局側に3番は歌わないでくださいと言われた。3番の歌詞は「原発みたいな/危ないものは/全てこっちに/押し付けといて」(実際には方言で歌う:標準語訳)とあったのである。あの時、素直に3番を歌わなかったが、なぜ自分たちの思いをきちんと歌わなかったのかと、事故が現実になり悔いたのだ、という。

もう一度歌いたい。しかし直接の被災者でない私たちにその資格があるのか。被災者を余計苦しめないか。悩みに悩んだ末に13年6月に完成したのが「花は咲けども」という曲である。歌う前に現場を見ておかなくてはならないと、福島県浪江町を訪ねた。そして山形県に避難している福島の人々の前で歌った。批判も覚悟したが、涙とともに「これは私たちの歌だ。」という言葉だった。他の歌手も歌ってくれるようになり、英語版も生まれた。この歌を携え農閑期の冬には、全国を回っている、という話である。

…実際にYoutubeで聞いてみた。こういう骨のあるフォーク・ソングは久しい。特に、「花は咲けども」は、「花は咲く」のアンサーソングになっている。いわゆる綺麗な合唱曲になっている「花は咲く」と対比して聞くべきだと思う。

 「白河以北一山百文」
https://www.youtube.com/watch?v=3YjrXCtUhv4
 「花は咲けども」
https://www.youtube.com/watch?v=5Vd8owCwSTM

2016年3月2日水曜日

アフリカの風に吹かれてⅢ

ザンビア・ムブルング http://www.panoramio.com/photo/17206087
重症の花粉症で、昼から登校するはずだったのだが、勘弁してもらった。体力が衰えていたところに花粉症で頭ガンガン、鼻水グスグス、激しいくしゃみと目の痛み…。かなり苦しい。というわけで、今日のブログは、昨日のエントリーの続きである。「アフリカの風に吹かれて~途上国支援の泣き笑いの日々」(藤沢伸子著/原書房:12年7月20日発行)同じくザンビア編。昨日紹介した拘置所経験者の難民・フランク氏の体験。これはなかなか貴重な記録だと思う。

彼は故郷のコンゴ民主共和国カタンガ州で高校教師をしていた。1993年のある日、行きつけの飲み屋で地元の政治家批判をしてしまった。カタンガ州のマイノリティー・ルバ人だった彼は、マジョリティー優先の政策を批判、大勢の前で演説してしまったのだった。それが拙かった。お尋ね者になり、警察にもマークされるようになったのだ。「たかがそれくらいのことでと驚くなかれ、これが現実なんだよ。」と彼は肩をすくめた。数日後、職場から戻ると自分の家が何者かに破壊されていた。ブルドーザーか何かを使って押しつぶされていた。命の危険を感じた彼は東に向かって延々と歩いて逃亡。タンガニーカ湖にたどり着く。岸を離れる船に飛び乗り、船員に匿われてザンビアのタンザニア国境近くにあるムブルングという難民キャンプに収容された。キャンプは緑の山に囲まれた見晴らしの良い美しい場所だった。テント、ポット、毛布などわずかばかりの物資を与えられた。そこでようやく、自分の状況が冷静に判断できるようになった。「僕は国を追われたのだ。」生き延びることができたという安堵感と背中合わせにやってくる喪失感、耐え難い寂しさとともに。この先の自分の将来に対する不安が襲ってきた。この生活は一体いつまで続くのか、カタンガに残してきた母のこと、教師としてのキャリア…。毎日毎日答えの出ない問いかけを自分の中で繰り返し、キャンプでの月日の流れは途方もなくゆっくりと過ぎていくように感じたという。

だが、彼はなんとか毎日を意義深く過ごそうと努力した。野菜を植え、近隣の難民とも助け合った。だが、自分のやっていることが一体何の意味があるのかわからなくなる。そしたらもうこんな所にいるべきではないという思いが止まらなくなった。著者は、この話を聞き、ある国で捕虜に対して行われた拷問を思い出す。捕虜は地面に大きな穴を掘るよう命じられ、完成すると今度はそれを元通り埋めなおすよう指示される。それを延々と繰り返されるうちに精神的に参ってしまうらしい。人間は意味を感じられない労苦には耐えれないようにできているのだ。

5カ月後、彼はWFPの食料輸送トラックに忍び込みキャンプを抜け出した。さらにヒッチハイクを続け首都ルサカに逃げおせた。もちろん、それは不法滞在で前述のように捕まる危険性も高い。だが、彼はこう言う。「毎日、何の希望も見いだせないまま、味気ないトウモロコシの粉を無理やり口に入れて、生き延びようとしてきた人間の絶望的な悲しみは、きっと本人にしか分からないだろう。」「でも忘れないで欲しいね。僕たちみたいな存在がこの世にいるってことを…。」著者は、この言葉を一生忘れないようにしたい、今でも想像も及ばないような境遇に置かれた人たちに出会った時、彼に言われた言葉を思い出して、自分の仕事に課せられた意味を考える原点のようにしている、と言う。ある意味、この本の最大のポイントになるような箇所である。

…ふと、イスラエル・テルアビブのエチオピア人街でのことを思い出した。ある黒人に「どこから来たの?」と英語で聞いたら、「LOST!」とだけ答えられてびっくりしたのである。ここは、アフリカなどからの黒人(ユダヤ系は母系なので黒人がユダヤ人であることは十分ありえる。またエチオピアには弾圧されていた古いユダヤ教徒が多くいて、以前イスラエル軍が救出したこともある。)や、ユダヤ系だが、ユダヤ教徒でないロシア人が多く集まった場所で、最も所得の低い地域でもあった。死海のスパでもレストランで働くアフリカ系の青年に出会った。彼もまた英語を介さなかった。
彼らもまた、ほとんど難民のようなカタチで、ユダヤ系であるが故にイスラエルに移民してきた人々なのだろう。はっきりとした難民の人々に会ったというわけではないが、こういう体験を私はしている。彼らを我々が理解することはかなり難しいと直感的に感じた。

…難民。いまシリア難民が世界的な話題となっているが、我々がどれだけ近い感覚でこの問題を考えれるのだろう。改めて、そう思うのだ。

2016年3月1日火曜日

アフリカの風に吹かれてⅡ

ザンビアの難民キャンプ https://www.daily-mail.co.zm/?p=12218
スーパーチューズデー、そして本校の卒業式と入試の合格発表の日、あえてそれらに触れず、先日(2月26日)のエントリーの続きを書きたい。「アフリカの風に吹かれて~途上国支援の泣き笑いの日々」(藤沢伸子著/原書房:12年7月20日発行)から、印象深い箇所をピックアップする。今日はザンビア編から。

ザンビアは昔からアフリカの難民や亡命者の避難所みたいなトコロで、南アのアパルトヘイト時代、ANCのメンバーもザンビアにおり、彼らを狙った空爆も何回かあったと言う。ザンビアには73もの民族が存在するが、特筆すべきは、他国で見られるような民族間の紛争が独立以後も一切なかった、平和な国であり続けたことである。平和で政情が安定していたからこそ、周辺国の難民の受け皿となってきた。「難民に寛容な国」なのである。

初代大統領カウンダは、一種の汎アフリカ主義者で、他国の政治家や白人政権と戦う反政府勢力の指導者などの受け入れに熱心であったことも大きい。モザンビークの独立運動を先導した初代サモラ・マシェル大統領や現在は悪名高いジンバブエのムガベ大統領も一時期匿われていた。

国際社会で「難民に寛容な国」と良き評価を受けても、一般市民には何のメリットもない。爆弾を落とされた地区の住民たちは当然大きなリスクを感じていた。基本的に平和な国民性だから難民排斥運動は起こらなかったが、不満は高まっていた。90年代後半、ルワンダやコンゴ民主共和国から大量の難民が流入し、28万人を超えた。そこで、難民の都市滞在許可証として電子IDカードが導入される。本来、難民はUNDHRなどが運営する難民キャンプに滞在するべきである、というのが、経済的に低迷していたザンビアの本音である。ザンビアもまた貧しい。だから、IDカードをもたない難民キャンプからの脱走者は、入国管理局によって捕まえられ、非人道的な拘置所に入れられるのだという。

その拘置所での話。雑居房の狭いスペースの中で皆が自由に寝ることはかなわない。囚人は揃って横向きに寝ていた。その姿勢で長時間経つとやがて片方の肩や腰が痛くなる。そのうちに囚人たちの間で暗黙のルールが出来て、誰かが手を叩いて合図をし、皆が一斉に向きを右から左へ、左から右へと変えるようになる。そうすることによって、何とか皆が休息を取ろうとしたのだという。

著者は、難民男性が面白おかしく話してくれたので笑い転げたらしい。とはいえ、かなり過酷な状況であったことは間違いない。

…今日は、花粉が凄い。私は一気に重症に陥ってしまった。もう100回くらい鼻水をかんでいる。鼻が詰まって無呼吸症候群がひどくなるのは間違いない。きっと妻の合図で、私も右、左と寝る体制を変えることになりそうだ。