2024年11月30日土曜日

中国船の海底ケーブル工作

https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2024/11/525880.php
中国の貨物船が、バルト海に面したロシアの港を出港後、2箇所でなんらか(130kmも錨を下ろしたまま操船した可能性大)で、バルト海の海底ケーブルを破壊工作した。世界中の海では、GPSで船舶の航行経路が明らかになっており、破壊された2箇所(リトアニアとスウェーデン・ドイツとフィンランド)の地点に、この中国貨物船があり、ヨーロッパ諸国はそれを確認の上、NATO軍の艦船がデンマーク近海でこの船を取り囲んでいるとのこと。

とんでもない犯罪行為である。おそらく、中国側は事故だと言い張るだろうが、ヨーロッパ諸国の対応が早く、言い逃れできない状況になっている。徹底的に捜査すべきだし、その補償をさせるべきである。

何故、このような工作をしたのか。ロシアの支援という憶測もあるようだが、これでロシアが軍事的優位に立てることはまずないし、ヨーロッパの中国EV車・関税への腹いせかもしれない。

全くもって「義」が存在しない国である。エゴイズムの塊のような国である。台湾海峡でも何度も同じような工作を行ったことは、歴史が証明している。ますます国際的に孤立していくだろうし、日本はいいかげん親中的態度を改めるべきであると私は思う。

2024年11月29日金曜日

ノストラダムスと死海文書

https://www.japanjournals.com/uk-today/18733-240219-1.html
「死海文書の封印を解く」(ベン・ソロモン著/河出夢新書)を読んでいて、さっそく面白い記述を見つけた。ノストラダムスの有名な予言書『諸世紀』の第1巻25に次のような詩が書かれている。

失われ、長く隠された物が発見されて 羊飼いは神のように尊ばれる 月はその長い時代を終える それ以外の風説は 恥をかくだろう

この詩は死海文書の発見を予言したものとされる。「失われ、長く隠された物が発見されて」2000年前の古文書である羊皮紙に書かれた巻物が発見されたことにピッタリ一致する。「羊飼いは神のように尊ばれる」は、ベドウィンの遊牧民により発見され、その古文書は聖マルコ修道院などに高く売りつけることに成功、仲間たちから神のように尊敬されたことを示している。「月はその長い時代を終える」の月はイスラム教のシンボルである。この死海文書が発見された1949年は、国連のパレスチナ分割決議によってユダヤ人国家が生まれた年であり、700年にわたったパレスチナにおけるイスラム教支配が終わったことに一致する。「それ以外の風説は 恥をかくだろう」は、それまでの最古の聖書写本は1000年前の中世に筆写されたものである。そこに、イエスが活動していた時期の情報が突然眼前に登場したわけで、死海文書の研究が進めば、今までのキリスト教の教義や聖書学者の学説がくつがえされてしまう可能性を示唆したものといえる。

…私が高校生だった頃、1999年7月に空から恐怖の大魔王が降ってくるという、ノストラダムスの大予言が大ブームを引き起こしていた。が、結局何もなく、忘れ去られてしまったのだった。しかし、この死海文書発見の予言は、わかり易いうえに見事に的中している。やっぱりノストラダムスは凄いのではないか、などと思ったのである。

2024年11月28日木曜日

死海文書入門を読む。

学院の図書館で「死海文書入門」(知の再発見双書134)を借りて、今日の帰路読み終えた。ビジュアルが豊富な入門書である。興味深かった内容について少し記しておこうと思う。

20世紀最大の考古学的発見と言われる死海文書は、ベドウィンの羊飼いが死海北西部のクムランの地で発見された。まあ大騒動というか金儲けの種になるわけだが、そういうエピソードには私はあまり興味がない。長年にわたって古文書学の専門家が調査、修復、文書化に励むわけだが、結局良くわからないというのが結論である。一時は、死海文書の成立時とイエスの活動期が近いこともあり、関係が取り沙汰されたが、エッセネ派とは関係が深そうだが、明確には証明されていないし、遺跡の主と思われるエッセネ派とキリスト教の関係もはっきりしないようだ。
https://www.tripadvisor.jp/AttractionProductReview-g293983-
d13819061-Skip_the_Line_Admission_Ticket_and
_Audio_Guide_The_Israel_Museum_Jerusalem-Jerusal.html
ところで、イスラエルに行った時、エルサレムのイスラエル博物館の別館のような鍋の蓋のような白い建物があって、息子が死海文書が展示してあると教えてくれたが、特に興味もなかったので行かなかった。まあ、行っても古代のヘブライ語やアラム語の古文書が展示してあるだけだろうが、今思えば行っておいたらよかったかなと思う。

この双書で興味深かったのは、その内容。外典創世記」には、アブラハムの妻・サラの美しさを称えた文書があったり、「エノケ書」にノアの出生時の話が載っていたりする。ノアは真っ赤な体と真っ白なカールした輝いた髪で生まれ、目を開くと家は太陽のように光り輝いた。産婆の腕から立ち上がり、神を称えた。父親ラメクは、天使の子だと恐れた。祖父エノケは、この子は後のノアの大洪水を預言し、その子は生き残ると語ったという話である。…なかなか面白い。続いて、もう一冊借りているので、明日からは「死海文書の封印を解く」を読もうと思っている。

2024年11月27日水曜日

動物ぬいぐるみのペンケース

https://www.amazon.co.jp/
来年もOS学院にお世話になることになった。というわけで、今朝ふとこんなアイデアが浮かんだ。今年4月に生徒諸君にアンケートをとったのだが、部活とか進路の希望とか、なかなか硬い内容だった。次回は、私は動物に例えれば(  )です。…そのココロは(   )。といった風に、ユーモアのあるものにしようかなと思ったのだ。この動物のイメージは、女子生徒の多くが、動物のぬいぐるみのペンケースを持ってきているのに由来している。不思議なことに3年生の中では見事に種類が重なっていない。(笑)生徒と話していて、「もしラクダのがあれば私も欲しいな。」などと言って笑わせている。(検索してみたが、さすがにラクダはなかった。画像はカモノハシのペンケース。誰か持っていた気がする。価格はペンケースとしてはなかなか高額である。)

OS学院は(   )色の学校です。…そのココロは(   )。といった学校への適応を垣間見たりするものや、私は将来(     )になりたい。…そのココロは(   )。といった進路希望調査っぽいものもいいかなと思っている。楽しく回答できるような工夫をさらに練っていこうと思っている次第。

2024年11月26日火曜日

マレーシアの国産車戦略

https://www.nna.jp/news/158228
地理総合では授業は大詰め。グローバル化のまとめを、先進国と途上国のそれぞれのメリット・デメリットから整理しているところである。途上国側からみると、グローバル化の自由貿易は、サプライチェーンの一部として第二次産業(+第三次産業も)の雇用が増えるという経済発展のメリット、技術力や経営のノウハウ取得というメリットもあるが、先進国の下請け的存在というデメリットから抜け出すのは難しい。今や、新植民地主義などと揶揄される現状もある。

国内産業を育成するには、歴史的な経験(ナポレオンの大陸封鎖やビスマルクの保護貿易政策、米英戦争による北部の工業化、さらには関税自主権を回復した日本の発展など)から保護貿易を行う必要性がある。今回は、マレーシアのマハティール首相の国産車戦略を話すことにした。現在、マレーシアの国産車メーカーのシェアは66%ほどであるらしい。もちろん、マレーシア独自では無理なので、三菱自動車やダイハツなどが深く関わっている。とはいえ、保護貿易、すなわち関税政策とルックイーストで国産車の発展を促したのは、ASEANの中でも先見の明であると言えるだろう。マレーシアが中進国になったのは、自動車産業を中心に第二次産業の裾野を広げたことが大きいと私は思う。

このところ、地理の授業では、様々な体験談を語ることが多くなった。人のグローバル化では、KLIA1空港で見た出稼ぎのインドネシアの人々からパスポートを集める様子なども話した。今、思えばマレーシアでは、貴重な教材的経験をさせてもらったと思う。

2024年11月25日月曜日

ンクルマの非無神論的唯物論

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AF%
E3%83%A1%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%
B3%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%9E
汎アフリカ主義を掲げ、ガーナの独立を成したンクルマは。政治家であるとともに、現代アフリカを代表する哲学者でもあった。久々に「アフリカ哲学全史」(河野哲也著:ちくま新書)の書評再開。

ンクルマは、”consciencism”という造語をつくって、自分の政治思想をある種の存在論の上に基礎づけようとした。この”conscience”は、人間の活動の指針として善悪を区別する能力と衝動と定義される。著者はこの造語を、自己意識の意味を含んだ「良心主義」と訳すのが妥当だとしている。アフリカ諸国の独立という緊急な政治的課題を解決するために、あえて存在論と倫理学、政治哲学を接続しようとする”興味深い企て”である。

ンクルマは、近代的な心身二元論に対して、20世紀の現代物理学は、物質の一元論に立つ存在論であり、相対性理論や量子論は物質が不活性であるという概念を根本的に変えたとして、時空間や法則性が物質に外在的ではなく、「自己運動能力が備わっている」ことを示したのだと言う。これは、唯物論を示唆しているが、無神論に帰結するわけではないと主張している。

マルクスやエンゲルスら19世紀の唯物論者同様に、ンクルマは物質の優位性を主張しているが、彼らの無神論と対照的に、物質が精霊を含むより高次の形態に還元可能(=上記の「自己運動能力が備わっている」こと)とし、著者は「非無神論的唯物論」と呼んでいる。彼の存在論は、アフリカの伝統的存在論に親近性があり、ガーナのアカン民族の至高の存在は、宇宙的な建築家であり、世界の秩序を構築する存在であり、動物、植物、無生物が底辺、祖先や生ける人間が中間に位置する存在階層の頂点を占めるものである。良心主義の非無神論的唯物論はアフリカ的な思想であるというわけだ。

伝統的なアフリカ社会は本質的に平等主義である。(平等を標榜する)マルクス主義もまた同様。さらにアフリカの伝統社会同様に、物質の一元論的テーゼ(唯物論)を信じるものである。故に社会主義が現在のアフリカの良心の最も有効な表現となるという主張に結びつく。著者は、良心主義は、アフリカ人たちの信仰と宗教心を否定せず、社会主義的政策を正当化しようとするイデオロギーだったとも言えるだろうと評している。

…少しばかり強引な感じがしないでもないが、ンクルマの活躍した時代を考慮すると、彼の主張はよく理解できる。1960年がアフリカの年となったのは彼の力量によるところが大きいからだ。特に現代物理学とアフリカの伝統的な信仰を「(物質には)自己運動能力が備わっている」という点で結びつけたり、アフリカの伝統的平等主義が、社会主義の唯物論的テーゼという点で結びつくではないか、と結論付けていくところなどは、著者の「興味深い企て」という表現、実に”言い当てて妙”というところである。本日の画像は、ソ連が発行したンクルマの肖像切手である。

2024年11月24日日曜日

先週の抜歯の件

https://www.google.com/maps/uv?pb=!1s0x600119679561d821%3A0x5ea
40da65ca82ab3!3m1!7e115!5zR29vZ2xlIOa
knOe0og!15sCgIgAQ&cr=lr_f3&hl=ja&imagekey=!
1e10!2sAF1QipNZwMGRAJXdXtNt66Fs8G_c
kBhiR32OSE8dbdqs&sa=X&ved=2ahUKEwiOuOnho
_SJAxWNk68BHW_FDvUQ9fkHKAR6BQgBENEB
先週、抜歯をした。思えば、これ以前に歯医者に行ったのは何時なのか、全く思い出せないほど遠い過去である。特にマレーシア滞在中、歯を痛めたのだが、中国系の歯医者ばかりで英語で状況を語ることがかなり難しいと思ったので、結局我慢していた。四国では近くに良さげな歯医者が合ったのだが、多くの歯医者は虫歯の治療が済んでも、いろいろと違う箇所も治療するという固定概念があって行くのをやめていた。大阪に帰ってきてからも同じだった。

ところが、今回は右下の犬歯が大きく伸びて、不意に噛むと激痛が走った。だいぶ我慢をしていたのだが耐えきれず、近くの歯医者に行く決意をしたのだった。さすがにネット社会なので、市内の歯医者の評判をリサーチしていたら、「無理強いするような治療をしない、本人の意志を尊重してくれる。」というクチコミの歯医者がすぐ近くにあったのだ。

たしかに、抜いてほしい犬歯を見て「これはたしかに抜くべきですねえ。」と麻酔をかけ、あっという間に抜いてくれた。私は糖尿病を持っている(事前にお薬手帳や担当医の抜歯同意を伝えておいた)ので、血が止まりにくいのを気遣いながら処置をしてくれた。結局帰宅後2時間ほど血は止まらなかったが、痛み止めの薬も全く飲まないままで、違和感こそあったが翌日からは問題もなく過ごせたのだった。その3日後、消毒と歯垢の除去のために行ったのだが、歯垢の除去はかなり苦手だと言うと、最低限の除去で済ませてくれた。これまでの歯医者とは全く違って感謝したのだった。

私は、血液型で言えばB型で、オリジナルの教材のプリントを書いたり、教材のパワーポイントに力を入れたり、このブログを書いたりすることは一切苦にならないのだが、苦手意識のあるものについては、ホント駄目である。歯医者はまさにその最右翼に属するものである。それが、今回は実に良い歯医者に恵まれたのだった。また歯に異常があればここしかない、と思っている。

2024年11月23日土曜日

超アウエー 対中国戦

https://www.youtube.com/watch?v=l9DAnhZFt0M
サッカー日本代表も頑張ってくれているということを昨日書いたのだが、対中国戦は、森保監督が「超アウエー」という”冷静な表現”で述べたように、とんでもない試合だったようだ。

まずは、ピッチ幅の狭さ。日本は、これを上手く使うので、意図的に狭くしたようだ。日本での得点差が7-0だったのが、3-1になったのは、成功したといえるが、FIFAの推奨より1.5mほど狭く、選手たちにはやりにくいという戸惑いがあったようだ。

国歌斉唱時の大ブーイング。これは、はっきり申し上げて非礼を超え、国際試合に参加する資格を問うような話だ。韓国もいろいろとやってくれるが、こういう姿勢は、国際試合、スポーツへの根本的な姿勢が未熟という語でくくれないほどの話である。ラグビーW杯でウェールズの国歌を日本人観客が大合唱して感動を与えたり、野球のオーストラリア戦で、日本人青年が1人熱心に応援歌を歌って感謝されたりする我々日本人からすると、まさに想像を絶する。まずは対戦相手へのリスペクトがスポーツの原点である。

W杯最終予選は極めて重要な国際試合である。ここに観客がピッチに乱入したりするのは、ありえない。スポーツはには、機微というか、ちょっとしたプレーで流れが変わる場合が多い。中国は民度の低さを世界中にさらしたわけだ。

最後に、レーザー照射。他の試合でもあったようだが、視力に障害を与える可能性があり、卑劣極まる犯罪行為である。このようなことが行われる国では国際試合を行うべきではない。

北朝鮮、韓国、そして中国と、国際試合を行う最低限のルールも守れない国とは、日本は拒否できる国際試合は拒否すべきだと私は思う。

2024年11月22日金曜日

大谷選手の満票MVPを祝す

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20241122/k10014645151000.html
先日の選手間の投票のMVP獲得で、ほぼ確実と見られていたが、大谷選手の担当記者による公式のMVP獲得が決まった。肩の手術・リハビリのシーズンであったにも関わらず、春季キャンプで、走塁の練習に励んでマイナスをプラスに変えた50-50。そこがなにより凄いではないか、と私は思う。まして、公私にわたってなにかと問題が起こったが、メンタルの強さと人柄の素晴らしさで周囲をも変えていくという凄さも特筆モノである。

来季はいよいよ二刀流の復活である。サイ・ヤング賞と本塁打王を取るなどという夢物語を実現するかもしれない。楽しみだ。

サッカーW杯の日本代表も頑張っているし、スポーツ界の明るい話題が多いのが、暗雲立ち込める日本の救いである、とつい考えてしまうのであった。

2024年11月21日木曜日

デ・キリコ展のポスター

https://www.kobecitymuseum.jp/exhibition/detail?exhibition=382
地下鉄今里線の駅には、いろいろなポスターが貼られていて、毎日一瞥をくれるのだが、今日、神戸市博物館のデ・キリコ展のポスターが貼られていたのを発見した。9月からやっているのに、今頃張り出すとは…なのだが、とにかく、すぐ妻にLINEを送ったのだった。

ジョルジョ・デ・キリコは、高校時代から大好きな画家の一人であるからだが、同級生だった妻もよく知っている。なにせ、高1の文化祭では、巨大な「吟遊詩人」のハリコをクラスで制作したくらいである。(笑)

このところ、買い物以外では夫婦で何処へも行っていない。キリコ展は、かなりインパクトがある。ただ、こういうことの主導権は妻が握っているので、閉展までに行くかどうかは妻次第である。(笑)

2024年11月20日水曜日

「黙示録」を読みとくⅣ

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/gallery/012001319/
森秀樹著「黙示録を読み解く」書評、最終回。「黙示録」をめぐる評価について、記しておきたい。

オーソドックス(=正教会)の評価:397年のカルタゴ会議で、カトリックがヨハネ黙示録を正典化した。オーソドックスはこの会議には不参加で、ヨハネ黙示録には不信感を持っていた。使徒ヨハネ著者説を否定し、使徒的文書として認めなかった。692年のキニセスティン宗教会議で東西両教会で新約27書が初めて議決されたが、オーソドックスは9世紀まで黙示録を拒絶していた。現在もその余韻は残っており、読むものの祈祷の対象ではない。

ルターの評価:ルターは、黙示録を徹底して否定した。その理由として、使徒の書・預言の書ならば、明確な言葉で残されるべきで幻や象徴などは取り扱ってはいけない。また、キリストの教えは示されておらず、適合できないとしている。

カルヴァンの評価:本書にはカルヴァンの記述はないのだがが、WEBで調べてみた結果、カルヴァンは、新約聖書の詳しい注釈を残しているが、ヨハネ黙示録の注釈はついに書かなかったようである。https://www.tenryo.net/m3_book.php?p=14&q=014

…こうしてみると、アメリカの人口の四分の一を占める福音派の存在が謎めいてくる。この福音派はプロテスタントの様々な宗派の集合体で、改革派・長老派(=カルヴァン派)、バプティスト、メソジストなどにまたがっているようだが、ルター派が入っているのかは定かではない。どちらにせよ、カルヴァン本人は否定的であることは間違いないので、その辺はどうなっているのだろう。新たな疑問が湧いてきた。

2024年11月18日月曜日

「黙示録」を読みとくⅢ

https://www.karakusamon.com/2020k/mokusiroku.html
森秀樹著「黙示録を読み解く」書評第3回目。前回のブログで少しふれたように、旧約聖書の黙示文学である「ダニエル書」と「エゼキエル書」等からの引用が、このヨハネの黙示録全405節のうち、278節もある。ただ、黙示録の著者はそれを明かしていないし、変形したものも多いそうだ。

前回もふれたが、「人の子」とは、マタイならびにマルコ福音書で、イエスは自分のことをそう呼んでいる。黙示録では、救世主・メシアの称号として用いているのだが、黙示録で表されたイエスの姿は、福音書に描かれていない凄い姿である。まず髪の毛が白い。これは純正を表している。また炎のような目をしているが、真偽・罪を見抜く力を、炉で焼かれた真鍮のような足は、苦難を乗り越えある域に達したことを、大水の轟のような声は、荘厳さ・権威を、そして、口から飛び出た両刃の剣は神の言葉を表しているとのこと。…カトリックでは、マリア信仰が盛んで、死に際して取次を聖母に頼むのだが、なんとなく判る気がする。(笑)ちなみに、ミケランジェロの最後の審判では、聖母はイエスの気迫にたじろいでいる姿で描かれている。

子羊が7つの封印を解くシーンが6節から始まり、4人の騎士が現れる。これは「ゼカリヤ書」の応用で、白・赤・黒・青白い馬にまたがる騎士(ゼカリヤ書では赤が2頭と栗色と白1頭ずつ)で、弓を持った白馬の騎士は戦争の象徴、剣を持つ赤馬の騎士は内戦の象徴、秤を持つ黒馬の騎士は食料の欠乏、青白馬の騎士は疫病を象徴しており、不吉な災いを示すものだとされる。

10本の角と7つの頭を持つ竜が12節から登場する。10はローマ支配下の10人の王、7つの頭はローマの7つの丘あるいは7人の皇帝を指し、キリスト教徒を迫害するローマを意味する。黙示録では、この竜はラスボスとなる。この竜に軍団を率いて戦うのが、イスラエルの守護天使である大天使ミカエルである。

たびたび登場する主要なキャラである4つの生き物は、「エゼキエル書」に登場する人間、獅子、牛、鷹で、福音書紀者に当てはめられていることを、前回記した。獅子は旧約聖書で103回も登場する。力強さ、勇気、威厳などを象徴である。牛(若い雄牛)は、犠牲獣として神に捧げられてきたが、黙示文学では力の象徴。人間は、ヘブライ語ではこれを表す言葉が5種あり、アダムはその一つで通称だと言う。(アダムは普通名詞なのだ。)鷲は鳥類の雄。これらは、神の被造物を代表する最も強く威厳のある生き物として選ばれていると言えるそうだ。

黙示録で、29回も引用されるのが、子羊。新約聖書では「屠られた子羊」すなわち磔刑のイエスを表している。贖罪の義を持っている。

黙示録では、様々な象徴が登場するので実にわかりにくい。1節の「7つの星」は前々回に記した、7つの教会の天使たち。「7つの金の燭台」は、7つの教会そのもの。4節の「7つの灯火」は、神の7つの霊。…7という数字は、天地創造から完成・完璧を意味する最重要な数。終末を告げる天使が次々と吹く「7つのラッパ」がその代表であろう。7はまた、過去・現在・未来+地水火風を合わせた完全数とも言われる。3✕4の12も完全数で、12ヶ月などの占星術だけでなく、イスラエル12部族やイエスの12使徒などにも関係する。

一方で、6は、7に1つ足りない不完全数である。有名な666は、獣の数字とされ、黙示録13章に登場する。「思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは人間をさすものである。そしてその数字は666である。」ゲマトリアという数秘術でギリシア語(あるいはヘブライ語)に隠された数値で読み解くと皇帝ネロを指しているとされている。

この他にもかなり多くの象徴があるのだが、今日は私が抜歯をした日でもあるので、ここまでとしたい。出血もおさまり、麻酔も切れたのだが、違和感が半端ない。(笑)…つづく。

バンザイ!兵庫賢民

https://www.mbs.jp/news/kansainews/20241118/GE00061816.shtml
兵庫県知事選挙で、様々な非難を浴びながら正義を貫いた前知事が当選した。SNSの世界では、かなり注目されていた選挙で、マスコミは全く報じない数々の県政の膿が露わになり、若者を中心に久しぶりの民主主義の良さが出た様に私は感じている。

このところ、民主主義に暗雲が立ち込めていて、はっきり言うことは避けるが、うんざりするような、内外の政治状況が続いていた。まさに、兵庫賢民、大阪愚民という表現がぴったりである。

ちなみに、アメリカでは、無所属(すなわち民主党を離れて)で立候補していたケネディ氏が厚生長官になるというニュースも流れて、Wに疑問を呈している人物が厚生長官とは、トランプ時期大統領もなかなかやるではないか、と思っている。

日本は、アメリカの51番目の州のようなもので、トップが変われば日本の政府もそれに従わざるを得ない。とはいえ、APECで居眠りをするような首相ではねえ…。大石内蔵助であることを祈りたいところだが…。

2024年11月17日日曜日

T大G高校ラグビー部 花園へ

https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2024/11/17/kiji/20241117s00044000177000c.html
T大G高校ラグビー部が、6大会連続の花園行きを決めたというニュースが飛び込んできた。私は、野球やサッカーも好きだが、ラグビーも大好き。H高校時代はラグビー部の顧問もしていた。大阪は、まさに高校ラグビー王国で、T大G高校は大阪第2地区での優勝である。

よくラグビーの試合は残酷だと言われている。野球やサッカー以上に勝者と敗者の差がつく。100対0なんて試合はザラにある。野球はコールドで終わるが、ラグビーにはそんな制度がない。厳しいスポーツである。

今週で最後になるが、T大G高校への地理特別講義に関わってたので、実に嬉しい。教えている生徒にはラグビー部はいないが、校内で何度かラグビー部の生徒から挨拶を受けた。花園という楽しみができたのだった。

2024年11月16日土曜日

「黙示録」を読みとくⅡ

https://blog.goo.ne.jp/hanakatami888/e/8fdb394264695f7540bb906574ba9d7f
「ヨハネの黙示録」は、旧約のダニエル書とエゼキエル書の強い影響化にあるようだ。森秀樹著「黙示録を読み解く」書評第2回は、この二書との関わりについて記していこうと思う。

ダニエル書とエゼキエル書は、イザヤ書と共に三大予言書と呼ばれ、黙示文学としても有名である。まずが、ダニエル書との関係性。黙示録に登場する幻視された怪物たちは、ダニエル書のものと共通点が多い。これらの幻視の怪物については、次の機会で触れたいと思う。さらに、「人の子」というキーワードがが両書に登場する。この「人の子」はメシアを意味している。

エゼキエル書と黙示録の関係性では、たびたび登場する4つの生き物が重要で、この人間、獅子、雄牛、鷲は、中世では、人間=マタイ、獅子=マルコ、雄牛=ルカ、鷲=ヨハネの福音書記者の象徴と捉えている。エゼキエル書にある『マゴグのゴグに対する聖戦』は、今やかなり話題(ロシアがイランとともにイスラエルを攻撃し、最終戦争を起こすという話で、創世記・ノアの箱舟の子孫の名称と居住した地域から割り出している。)になっているが、黙示録でも同じ様に描かれている。

さて、現在のイスラエルの戦争はどうなっていくのか。佐藤優は、イスラエルとイランは、軍事施設しか攻撃しないというゲームを確立しており、この後は、北野映画・アウトレイジよろしく、イランは下部組織を切り捨てて手打ちをするだろうと述べている。実に興味深く読ませてもらった。

https://news.yahoo.co.jp/articles/2035718e31761a0762a81d485cffd01acb912b92

一方で、少し古い話題になるが、2000年ぶりに、五頭の完璧な赤い雌牛がテキサスで生まれ、イスラエルに到着している。この牛は第三神殿建設に欠かせないものであるらしい。モーセ五書の4番目である民数記(19章の2節以後)にその記述があり、穢れを祓うために必須のアイテムであるらしい。これが準備されたということは、イスラエルが、第三神殿を建てようとする動きに大きく関わる。(多くの記事やYouTubeがUPされており、容易に検索可能。)

何処に建てるかなどというのは愚問であろう。アブラハムがイサクを神の命によって生贄にしようとした岩のところで、現在は岩のドームが建っている、ムハンマドがここから昇天し、1日の礼拝の数を神に決めてもらったというイスラム教・第三の聖地である。イスラエルは、ヨルダン領に位置するこのドームを破壊する気だ。そうなれば、手打ちもクソもあったものではない。比較的イスラエルと友好的である諸国をも敵に回すことになるだろう。

ただ、イスラム諸国が譲歩する可能性が少しだけあるのは、メッカ・メディナに次ぐ第三の聖地であることだ。イスラムの終末観では、メッカにメシアが登場し、裁きを行う。ユダヤ教・キリスト教では、エルサレムが終末の舞台である。ユダヤ教ないしキリスト教の福音派は、第三神殿の建設を譲らないだろうが、イスラムには譲れる可能性は、少し残っているのではないか、などと私は思うのだが。これが幻視でないことを祈りたい。

2024年11月15日金曜日

追善回向と追悼ミサ

https://www.osaka-shinai.ac.jp/blog/gakuin/detail/54
学院では、本日追悼ミサが行われた。カトリックでは、11月は死者の月とされており、朝の祈りの時の讃美歌も追悼の曲を歌う。先生方も今日は、黒を基調にした服装であった。6限目のLHRの時間に講堂で行われたのだが、私は今回は出席しなかった。歯が痛むのと、すでに朝5時過ぎから、ブディストとして追善回向をしていたからである。上記画像は、学院のHPから。およそどういうミサなのかは把握できた次第。6月のミサもそうだったが、厳粛そのものであったろうと思う。

2024年11月13日水曜日

「黙示録」を読みとく

学院の図書館で、森秀樹著「黙示録を読み解く」を借りてきた。懐かしのイラスト付き講談社現代新書である。著者は神学者ではないが、古文書や翻訳をしている人であるらしい。と、いうわけで、少し内容に不安が残ったのだが、どうしてどうして、なかなか面白い。

聖書学から旧約聖書を解説している加藤隆氏も、様々な旧約の黙示的な文書は、当時のユダヤ人を取り巻く危機の影響を受けているという記述が多い。新約聖書の最後を飾る超有名なヨハネ黙示録も同様である。ローマの支配とユダヤ戦争で大離散時代を迎え、ユダヤ人とキリスト教徒への迫害が続く。戦争の四半世紀後に黙示録が表されている。皇帝ドミティアヌスの、小アジアのキリスト教徒(大半は非ユダヤ人であったが、皇帝を神と崇拝することを是としなかった故に、またメシアを待望していた故にユダヤ的と見られていた。)への迫害に対し、小アジアの7つの教会は無抵抗主義であり、存亡の危機にたたされていた。

よって、ヨハネ黙示録は、7つの教会の手紙から始まるのである。試験作成が大詰めになってきたので、次回はいつになるかはわからないが…つづく。

2024年11月12日火曜日

南アのダイヤモンド鉱山の話

https://science-stock.com/graphite-diamond/
TG高校の地理特別講義の日である。20分前くらいに講義をする小教室に行くと、地理を教えている理系の生徒が、文系の生徒を相手に化学の結合について講義していた。(笑)なかなかわかり易く説明していて、感動した。ダイヤモンドが何故硬いのか、良くわかった。共有結合というらしい。

例によって、模試の問題の解答&解説をしていたのだが、いつものように脱線しながら話を進めていった。うまく講義前のダイヤモンドの話を結合できないものかと考えていたのだが、ジニ係数の話を最後にすることにした。昨日のブログで記した、世界で最もジニ係数が高いのは何処かを問うた。何度目かの解答で南アの名前が出た。

で、南アといえば産業は何かと問うと、ダイヤモンドときた。今は白金のほうが多いのだがちょうどいい。生徒は、化学の結合のことは知っているが、そもそも天然のダイヤモンド鉱山の様子は知らない。私も、南アでのツアーで鉱山を見学したから知っているに過ぎない。

簡単に言ってしまうと、火山の噴火口に溜まった冷えたマグマの中にダイヤモンド鉱石は存在しているのだ。それを掘り、水で洗い流しながら、鉱石を探すのである。最後には地表に空いた巨大な穴となる。鉱山での最も大きいダイヤモンドの価格はいくらか?(最初に買い手が価格を言ってからスタートになるらしい。)といった話なども交えて今日の講義を終えたのだった。少人数でやり取りが活発にできる授業は、面白い。

2024年11月11日月曜日

南アのジニ係数 0.630

https://africa-keizai.com/income-disparity_poverty_south-africa/
地理総合では、グローバル化を中心に授業をしている。ジニ係数についても、教えている。グローバル化の最大のデメリットは、国内ならびに、先進国と途上国の経済格差が共に拡大することだ。国内の格差はジニ係数で、国家間の格差はHDIで比較するのが、高校の授業としては最も適当だと思う。

そのジニ係数、世界で最も数値が高い(=格差が大きい)のは、南アで0.630である。(ジニ係数の最大は1、完全平等は0となる。)アフリカ哲学全史で、南アのマンデラやツツのアパルトヘイト後の思想「ウプントゥ」について深く学んできたが、現状は実に厳しいわけだ。

https://africa-keizai.com/income-disparity_poverty_south-africa/
南アのジニ係数が高い理由について、ある生徒から「何故ですか?」という質問を受けた。直感で、「鉱山を所有しているような少数の富裕層がいるからだと思う。」と答えたのだが、資料を見ると、たしかに所得の上位10%が、全体の50%を占めている。

南アに行った時、プレトリアのゲストハウス(まあ安宿である。)の黒人スタッフが大学出であったことだ。彼には、いろいろと教えてもらって助かったのだが、およそホワイトカラーとして活躍していても不思議ではないのに、良い職がなかったのだろう。今はどうしているだろうか。中間層としてそれなりの暮らし向きであればいいのだが…。

庭でラジオを聞きながら、英語のコミックを電訳機を片手に読んでいたら、掃除のオバサンが、「そのラジオは日本製?いくらくらいするの?」と聞いてきた。最も安いラジオで、1000円くらいだった。当時のランド(南アの通貨)に換算して答えると、「私の給料ではとても買えないわ。」と言ってきた。「ジンバブエに行って、もう一度このゲストハウスに戻ってくるから、その時プレゼントするよ。」と言ったら大喜び。ジンバブエから戻ってきたら私の名を呼び、ハグしてきた。(笑)翌日、彼女は、腰に私のラジオを結びつけてご機嫌で掃除に勤しんでいた。彼女の所得はあれから少しでも向上したのだろうか。

南アのジニ係数について、理論上の話ではなく、現実の体験からそんな危惧を抱いたのだった。

2024年11月10日日曜日

サニー号のボトルシップ

https://www.youtube.com/watch?v=xgpdZ0iIo9Q&t=39s
期末試験を作っていたが、ちょっと休憩。YouTubeで、粘土細工で、ワンピースのサニー号をつくりボトルシップにするコンテンツを発見。いやあ、凄い。粘土細工の技も凄いし、凄い集中力と根気である。とてもマネできない。なかなか良いものを見せてもらった。
https://www.youtube.com/watch?v=xgpdZ0iIo9Q&t=39s

2024年11月9日土曜日

「本格的一神教」の伝統 考

https://www.osanaki-iezusu.or.jp/shoukai06/shudokainitsuie06/newpage2.htm
学院の各教室や職員室に、次のような言葉は書かれた額がある。「キリストに信頼し、愛の実践に生きる」創立者・レーヌアンティエが遺した学院の建学の精神だとわかった。この日本語の表現、私には長い間、どうも腑に落ちなかった。「キリストに」ではなく、「キリストを」ではないのか。助詞の問題である。何人かの先生に聞いても明確な答えがなかったのだ。

カトリック教育主担のM先生が、この謎を解いてくれた。「キリストを」では、いくつかの神のうちの1つを選ぶことになる。「キリストに」となると唯一の存在となる、と。

昨日のブログでエントリーした「本核的一神教」の話につながってくる。神を選ぶのではなく、神に選ばれるという思想は、カトリックにも伝統的に生きていたのだった。当然と言えば当然の話ではあるが…。昨日のブログで、この件も記しておきたかったのだが長くなったので、あえて分けてエントリーした次第。本日の画像は、創立母体の故郷、フランスのショファイユという街である。

2024年11月8日金曜日

聖書学から見た旧約聖書3

加藤隆氏の100分de名著「旧約聖書」の書評第3回目。ユダヤ教は一神教である・選民思想を持っている・律法主義である、というのが高校の倫理で教える知識ではあるが、聖書学から、また歴史神学から見た場合、実はそんな簡単な話ではない。

前述のソロモンの栄華以降、イスラエル統一王国は、南北に分裂する。南のユダ王国は、前述のように出エジプトの子孫である。北のイスラエル王国は、ヤハウエを受け入れた先住民の子孫である。北王国では、やがて多神教的な王が出てきたりして、それが原因かはともかく、アッシリアに攻め込まれ、先に滅びてしまう。南王国でも、その傾向が見られ、バビロニアに滅ぼされてしまう。

「人が神を選ぶことができる」というスタンスから多神教信仰が生まれてくると、著者は分析する。この時はまだ「普通の一神教」であった。こうした状況の中で、ヤハウェを見限る者が北王国はもちろん、南王国にも多数いたのではないかと著者は見る。しかし、このような苦難に際し、何もしてくれなかったヤハウェに対し、「人が神を選ぶことができる」という前提を捨て、「神が人を選ぶ」のであって、何があろうともユダヤ民族の神はヤハウェのみ、とする堅固な「本格的一神教」が成立する。選民思想というのは、こういう風に生まれたわけだ。しかも、神が救ってくれなかったことは、自分たちの罪であって、神の責任ではない、という「罪の思想」が育まれていく。

ユダヤの民が、罪の状態にある故に、神は(民の苦難に)沈黙した。そこでなすべきこと=掟が定められ、神の前の義として、ヨシア王による「申命記的掟」が定められていく。律法主義の成立である。聖書の編纂はまだで、B.C5~4世紀に五書が編纂されるのだが、モーセが死ぬ前に述べた長い掟、それが五書の申命記の最後に記されている。聖書学で使われる「申命記的掟」という名称は、それ故である。著者は、面白い比喩を使っている。徳川家康が定めた掟を、聖徳太子が定めたように記述した、と。聖書は単純な性質のものではないということが窺い知れる一例だとも。

旧約聖書は複雑極まりない内容なのだが、あえて代表的テキストを挙げよと言われたら、多分に権威的かつ伝統的な立場から、申命記の6章4~5(または~9)となるそうだ。『聞け、イスラエルよ、我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』この言葉は、「シェマの祈り」(熱心なユダヤ教徒が朝夕唱える)の冒頭部分で、これに申命記の11章13~21、民数記の15章37~41を合わせてテキストとなっている。

唱えるだけでなく、このテキスト(申命記の2つのテキストと出エジプト記の13章1~16)を記した羊皮紙を小さな箱(テフィラ)にいれ、祈りの際に額や左腕に取り付ける事になっている。(上記画像参照)ちなみに、出エジプト記13章の1~6は、エジプトから出発する時のモーセへの命令とそれを民に伝えた内容である。

ちなみに、かの有名な「モーセの十戒」は、申命記の5章にある。また「7年毎に負債を解消し奴隷を解放しなければならない。」は申命記15章に、「三大祝祭日(過越祭・七週祭・仮庵祭)にはエルサレムに行かなければならない。」は申命記16章に、「戦争の時は町の住民を皆殺しにしなけれなならない。」は申命記20章に記されている。

…私は、エルサレムの嘆きの壁で、テフィラを付けた超正統派の人々の姿を目撃した。彼の額と左腕には前述の羊皮紙に記されたテキストが入っていたのであろう。またティベリアという街のホテルの屋上で、朝の礼拝をしている超正統派の人も目撃した。(上記画像)この時、唱えていたのは、前述の「シェマの祈り」であったのだろうと思うと、なんとも感無量である。

2024年11月7日木曜日

米大統領選 G先生との対話

https://www.bbc.com/japanese/articles/c3vld20437ro
アメリカの大統領選挙は、トランプの圧勝で早々と結果が出た。前回のなにやら胡散臭い大混乱の流れとは違い、少し驚いた。

学院で英語を教えているボストン出身のG先生と、この結果について、対話する機会があった。彼は、国外にいながら投票用紙をメールで受取り、PDF化して投票したらしい。日本の場合は、大使館に出向く必要があるとマレーシアでの体験を話すと驚いていた。出身地から推察するに、本来なら民主党支持なのだろうが、さすがにバイデン政権の政策には危機感を持っているようであった。トランプが当選したことに対しては、どちらがなってもアメリカのこれからに危機感を表明していた。

私などは、さすがに異常なまでの移民の受け入れに、国民の批判が集まったのではないかと意見を述べた。アメリカでは、税金の申請は、個人がそれぞれ行う。天引きする日本と違い、税金の使い道に対してシビアである。彼らの税金が移民対策に莫大に使われていることに、かなり批判が集まったと思うのだ。しかもバイデン政権下でアメリカは、ウクライナ紛争やイスラエルの紛争に巻き込まれている。トランプの4年間は、少なくとも軍事行動はなかった。もしかしたら、ウクライナ紛争を仲介できるかもしれない。

2人の対話の結論は、トランプはビジネスマンであり、その良さが活かされるかどうかにかかっているということ、民主党の次期候補は、リベラルであり、しかもトランプとも親密で保守的な発想も併せ持つ中間派のケネディがいいのではないか、ということで落ち着いたのだった。

聖書学から見た旧約聖書2

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/82041
加藤隆氏の100分de名著「旧約聖書」の書評第2回目。ダビデもなかなかスキャンダラスな話(水浴びをしていた軍人の妻を見初め、夫を最前線に送り戦死させ、妻とし、ソロモンを産ませた。)がある。このへんは、歴代誌とサムエル記の記述が食い違うところで、なかなか興味深い。ソロモン王は、「ソロモンの栄華」という言葉があるくらい、ユーフラテス川からエジプトとの国教まで領土を拡大し、神殿も作り上げている。さらに王妃700人、側室300人との記述(列王記)とあるのは、軍事的だけでなく外交的にも多民族を支配下におさめようという政治的意欲の表れではないかと著者は記している。このソロモンの王権が充実したことと、創世記冒頭のエピソードは、関連しており、賛美ないし批判のたとえ話だと考えるべきだと、著者は記している。

「エデンの園」は、知恵を持つことで、神のようになった人間が出現し、神との断絶が生じた/ソロモン王の知恵による王的支配の批判。「カインとアベル」は、人でありながら、神のように振る舞う者に神が保護を与える(弟殺しの兄カインは、追放されたものの、後に手厚く保護される。)/ソロモン王への賛美。「ノア」の方舟は、神殿を意味し、賛美。「バベルの塔」は、神殿批判。領土拡張による多言語状況の出現で生じる混乱の指摘。ソロモン王の政治のあり方への批判。

…思っても見なかった視点で、実に興味深い。ところで、全くの偶然だと思うが、今日、ある生徒が大学の志願書を見てほしいと持ってきたので、昼休みに少し指導した。そこに、ブリューゲルの「バベルの塔」を見て感激し、西洋史を志したとあった。たしかに歴史に残る名画である。(画像参照)これが、ソロモン王の野心への批判という説があるのだよ、などとは言えなかった次第。(笑)

2024年11月6日水曜日

聖書学から見た旧約聖書1

https://israel.bona.jp/wp/archives/3761/
加藤隆氏の100分de名著「旧約聖書」(8月14日付ブログ参照)を読んでいる。神学の分野には、組織神学や実践神学、歴史神学、そして聖書神学などがある。著者は、聖書神学がそもそも専門であるようだ。この本には、聖書学から見た旧約聖書とも言うべき内容がたくさんあって、実に興味深い。

まずは、ユダヤ教の聖書はヘブライ語の聖書であること。キリスト教の旧約聖書は、ギリシア語に翻訳された「七十人訳聖書」であること。1世紀末にユダヤ教知識人が「ヤムニア会議」で、ヘブライ語で書かれた39の文書で構成されると決定した。これがユダヤ教とキリスト教の分裂の時期である。キリスト教の旧約聖書(=七十人訳聖書)には、それ以前の文書(外典:トビト記や知恵の書など)も含まれている。但し、キリスト教内でもカトリックやオーソドックス、聖公会、プロテスタント各派で含まれ方に違いがある。

「出エジプト」によって、ユダヤ教が成立するが、同時に同じ神を信仰する集団としてのユダヤ民族が成立する。その後、長い荒野の放浪を経て、カナンの地の先住民を征服するのだが、先住民を平等に扱うことを基本とした。ここで生まれたのが十二部族で、それぞれ自治を行いながら部族連合を形成する。ヨシュア記によれば、カナンの全住民をシケムという地に集めヤハウェを信仰することを確認する。この時のヨシュアの演説では、全員がエジプトから逃れてきたように述べられているが、征服者も先住者も平等であることを宣言したと考えるべきだと著者は記している。

協力な敵が現れたときは、「士師」(しし)という臨時の将軍を選び戦うことも決められた。この十二部族は、平等という原則ながらも、南の二部族(ユダ・ベンヤミン:出エジプト者)と北の十部族(ルペン・シメオンなど:先住民)+支配地を持たない祭司職・レビ族に区分されていた。やがて、強大な敵に対し王国を形成し、協力な支配者を得る必要性に迫られる。士師の時代にアビメレクという実力者が登場するが家柄が良くないということで、サムエルという預言者(王国の政治顧問のような役割)が、ベンヤミン族のサウルを王とし、「頭に油を注がれ」最初の王となった。しかし王国建設はうまくいかず、血縁のないダビデが「イスラエル統一王国」(後のイスラエル王国と区別する為こう呼ぶ)を築く。さらにその子ソロモンが継ぐのである。ここで重要なことは、ダビデの子孫が王となることが決まるが、最初の王はダビデとは血縁がない。聖書には、常識的なことがひっくり返るようなことが書かれていると著者は分析している。

さて、この、頭に油を注がれた者=王というのが、ヘブライ語のメシアであり、ギリシア語ではクリストスである。日本語ではキリストとなるが、救世主と訳すより、ダビデ王朝の王、イスラエル民族の政治的軍事的指導者と言ったほうが適している、とのこと。また王は神の子とされ、権力が保証されていた。…つづく。

2024年11月5日火曜日

「佳作の人」の世界一

残念ながら、学園のサッカー部が決勝に残れなかった。昨日はちょっとショックでブログが書けなかったほどだ。昔、H高校の野球部の監督をしていたD先生が、よく「勝負師」という言葉を使っていた。部活で全国を目指すくらいの先生は、勝負師的な精神の持ち主であろうと勝手に思っている。学園のサッカー部や野球部の監督もそうに違いない。昨日の試合など、最後の最後、シュートがバーに嫌われたが、入っていいれば同点、その後勝っていたかもしれない。高校の部活はつくづく紙一重の戦いのように思う。

私は、実は牡羊座で、星占いによると、生まれつきのレーサーらしい。勝負にこだわり、スポーツ選手に向いているとのこと。だが、私は「佳作の人」(2013年7月2日付ブログ参照)である。優勝とか、第1位とかには縁が無いし、そういう勝負には、歳を重ねて、ますます淡白になっている。(笑)

そういう私なのだが、昨年末からハマっているPCの無料ゲーム「City Island6」の、3日間限定のトライアウト・ゲームで、昨日ほんの一瞬だが「世界一」になった。(画像参照)もちろん、無課金だし、その後は順位を下げているし、別に世界一でありたいなどとはつゆにも思っていない。(笑)だが、せっかくなのでその画像を保存しておいたのだった。

学園のサッカー部も野球部と共によく頑張ってくれたと思う。本物の文武両道の学園の誉れである。これからもずっと応援していきたいと思う。3年生は、受験では絶対勝利して欲しい。

2024年11月3日日曜日

デリダの「ウプントゥ」批判

久しぶりに「アフリカ哲学全史」(河野哲也著/ちくま新書)の書評。第10章にあるマンデラの「ウプントゥ」に対するデリダの批判について記しておきたい。フランスの高名な現代哲学者が、アパルトヘイト後の真実和解委員会をキリスト教に偏向しているのではないかと批判したのである。

確かに真実和解委員会の議長は、聖公会(=英国国教会)の聖職者・ツツだったし、当初祈りや讃美歌などの儀式も行っていたようだが、徐々に払拭されていったし、教会とは無関係であった。マンデラ自身はメソジスト系の学校で教育を受けているが、ウプントゥと対比して低い評価を与えている。デリダのキリスト教偏向という批判には、ある程度妥当性があるとはいえ、ウプントゥを「和解」の同義語をして翻訳されている以上、間違っているといえよう。デリダは、アパルトヘイト廃止以前から存在していたウプントゥの哲学的倫理学的論考を自著の中で参照した跡がなく、あれほど言葉の使用に厳しく、レトリックを華麗に駆使する哲学者らしからぬ、軽々しさを感じると著者は記している。ちなみに、このデリダの著作は『世紀と赦し』(1999)で、リクールに批判され議論となり、『赦すこと:赦し得ぬものと時効にかかり得ぬもの』(本日の画像参照)において、「赦しはただ赦され得ぬものを赦す」ことと定式化している。

ウプントゥの考えが、和解や修復的司法に親近性を持つのは、アフリカの伝統的村落社会の紛争の解決がそれに近いからである。ここで、アフリカ文化人類学者として私が尊敬する松田素二先生の指摘が登場する。松田先生は、アフリカの紛争解決には2つの原則があるとされ、第1の原則は「癒しと共生」の原則で、処罰ではなく、加害者受容を優先する点。加害者個人に罪を帰責せずに共同体に最受容するための社会的手続きに創意工夫を凝らすこと。第2の原則は、真実の複数性の原則で、物証に支えられた唯一の真実よりも和解の追求を優先する。交渉折衝によって変異する真実に基づく集合的判定を重視すること、である。この指摘は、真実和解委員会に見られ、またマンデラやツツの発言の随所に見られる。

修復的司法は、現在80ほどの国で何らかのカタチで実施されているが、先住民族や多民族問題をかかえた国である。ユダヤ人であるデリダは、赦しをめぐるアブラハム的なモデル(ユダヤ的)に対して、キリスト教的モデルを優位に立たせようとするものだ、と批判した。デリダは、真実和解委員会の和解の過程は、ヘーゲル的な亡霊(西洋化・キリスト教化・白人化によってアフリカ人は解放に至るという予言)に従ってしまっているのではないかと示唆している。著者は、あくまでユダヤ人のスタンスから論じているとしている。デリダは、自分の一方的な視点からマンデラやツツ、そしてアフリカ哲学を解釈し、ユダヤ教対キリスト教の図式に当てはめたに過ぎないと批判的である。…なるほどと私も思う。

ちなみに、ユダヤ人哲学者つながりで、アーレントの議論も記されている。赦しは復讐の対局にあり、赦し得ないものには赦しの議論から外される。復讐の念を持ち続けるべき対象を罰したり赦したりすることで、その念を終わらせるわけにはいかない、と「人間に条件」第5章に書かれている。また日記(1950年6月)には、「許しと和解は根本的に異なる行為である。赦しは一方的であり、垂直な関係として成りたち、平等を破壊する。これは人間的な関わりの根底を破壊する。和解は水平的であり、その平等性を再建しうる。(要約)」とも書いている。

…私は、アーレントよりデリダのほうが好みなのだが、両者とも西洋哲学の基盤の上で議論しているのはは明白である。こうしてアフリカ哲学を学んでいるとだんだん、西洋哲学に嫌気が差してくる。(笑)

2024年11月2日土曜日

学園サッカー部 逆転勝利

https://www.youtube.com/live/scCYJ37GX4A
学園のサッカー部が、全国大会兵庫県予選でベスト4に進出した。雨と強風の中、日頃鍛えた技術が発揮できないのは両チームとも同じ。特にスローインのハネ具合が極端に短くなったりして、敵チームの足元に行ったり、クリアはラグビーのようにラインアウトを繰り返さねばならない苦しい試合だったと思う。

前半は0-0。後半の15分頃にPKを与えてしまった。しかし後半残り僅かのところで、コーナーキックの混戦を制してゴール。同点に追いついた。さらにその後同じくコーナーキックから、相手チームのキーパー(彼もかなり上手かったことをあえて記しておく。)が弾いたボールがオウンゴールとなったように私には見えた。雨と追い風を受けながら、普段ならならないのに、そうなったのだろう。

ともかくも逆転勝利で、4日の準決勝進出だ。今度こそ、と応援したいと思う。

天才の怒り 最後の審判

https://www.artpedia.asia/the-last-judgment/
「名画で見る聖書の世界<新約編>」(西岡文彦/講談社)の書評もいよいよ最終回となった。ミケランジェロの「最後の審判」(バチカンのシスティナ礼拝堂)には、様々なエピソードが秘められている。

中央上部に怒れるキリスト、左に天国に召される人々、右側に地獄に落とされる人々が描かれているのだが、1541年の除幕式では、あまりの迫力に参列者の悲鳴が堂内を満たし、法王は思わず膝まずき「神よ赦し給え」と祈りをつぶやいたらしい。映画もTVもカラー写真もなく、絵画さえ一般人が家庭で見ることはなかった当時、この巨大な壁画のインパクトは、我々の想像をはるかに超えるものっだたようだ。

圧巻なのは、400人近い筋肉美の裸体。完成後、教会の決定で裸体に腰布が40箇所、ミケランジェロの弟子によって加筆されたが、近年の修復で取り去られている。また30年後に法王は取り壊しを考慮したが、当時の画家組合の反対で守られた。

この大壁画は、反宗教改革のビジュアル戦略の切り札として最高の名声を誇っていたミケランジェロに依頼したわけだが、伝統的な教会の権威を補強するどころか、羽を持たない天使、後光のない聖人などが、地獄に落ちる罪人と区別できない混沌が渦巻いている。

法王庁の儀典長は、地獄の王ミノスの顔に描かれ、法王に描き治すよう直訴したが、「いかに私でも、地獄のことは請け負いかねる。」と笑って相手にしなかったという。ミケランジェロ自身も、生皮を剥がれて殉教した聖バルトマイ、さらに目からウロコで有名なサウロ(=パウロ)の改心に自画像をしたためている。ミケランジェロ自身は、卑下するような歪んだ自画像が多いのだが、実際ダビンチとのような美貌には恵まれず、かなりのコンプレックスがあったようだ。このコンプレックスが、肉体美を理想美としたようである。

このミケランジェロの「最後の審判」は、怒りに満ちており、ルター派への反宗教改革の怒りにしては長深すぎると著者は記している。本来の信仰を見失っているという点でカトリック教会に向けられたものではなかったか。彼らの「最後の審判」に対する無理解と反感はミケランジェロの真意に対する無意識な理解だったかもしれない、とも。

2024年11月1日金曜日

気の早い期末試験後の話

https://www.irasutoya.com/2015/09/blog-post_961.html
明日から三連休である。この三連休は、気の早い話だが期末考査の問題づくりをするつもりである。中間考査はかなり厳しい問題にしたので、期末考査は緩い問題で行こうと思っている。これもプロの仕事である。(笑)問題を作成していて、その後のことも考えた。超久しぶりに、アフリカ開発経済学的な、今風に言えばグループでの「探求」学習にしようと思う。もちろん、特進コースを除いての話だが…。

今日の授業は、私の体調や1・2年生が模擬試験だったことも鑑みて、以前から用意していた提出課題をやってもらっていたのだが、その合間に何人かの生徒に、その話を投げかけてみた。存外好評で、グループ分けについても、2クラスの学級委員に「丸投げしていいか。」と訪ねたら、「問題ありません。いいグループ分けをします。」とのこと。さすが3年生である。

パワーポイントを使うか、ポスターセッションにするかも尋ねたら、「みんなで協力し合うためにはポスターセッションの方がいいと思います。」との答え。ちょいとばかり見直したのだった。(笑)