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今、ロシア軍が沿ドニエストル共和国という国際的な未承認国を占領するというニュースも出ている。沿ドニエストル共和国というのは、モルドバの東部、ドニエストル川とウクライナの国境の間の細長い土地(南北約200㎞、東西は広いところで20㎞、狭いところで4㎞で埼玉県くらいの面積)に位置する。国際的にはモルドバ共和国の一部である。
この地は、18世紀にはロシア帝国の国境地帯で、ロシア人やウクライナ人が多く植民した。また、19世紀の露土戦争でオスマン・トルコが割譲した地でもある。ルーマニアから見れは未回収のルーマニアでもある。ロシア革命時、モルドバはロシア連邦内の共和国として成立を宣言したが、一ヶ月もたたないうちにロシア連邦から独立,ルーマニアとの統合を決定したが、ソ連はそれを許さず、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国内のモルドバ社会主義自治共和国とした。
当時はモルドバでは、ルーマニア語の学校もあり、そもそもモルドバ語はソ連がキリル文字を強制したので、ラテン文字のルーマニア語と異なる言語のように見えるが同じで、ソ連解体後はラテン文字に戻っている。つまり、モルドバ人はルーマニア切っても切れない存在である。
ソ連崩壊後、沿ドニエストル地域のロシア系住人は危機感を覚えた。ソ連時代の自分たちは一級市民だったのが、ルーマニアの支配下に入ると落ちぶれると危惧したのである。そこで90年に2回の「国民」投票が行われ、96%、98%という圧倒的多数でモルドバからの独立を決議したのである。(このような危惧はウクライナ東部の未承認国でも同様であるようだ。)
モルドバは、沿ドニエストルもろとも91年ソ連から独立(ソ連はなし崩し的に承認)した。モルドバのGDPの40%・電力の90%の供給源を占める沿ドニエストルを手放せるわけはなく、内戦となる。沿ドニエストルに駐留していたロシア軍第14軍の支援を受け、勝利のうちに停戦、モルドバ政府はロシアの条件をのみ、ロシア・ウクライナ・沿ドニエストル合同の平和維持軍により停戦監視が行われた。この沿ドニエストル問題の背景にあるのは、民族問題というよりも体制のあり方の問題で、ルーマニアやEUに接近し欧米型の体制を志向するか、親ロシアで旧来の体制を守るかということであるようだ。なぜなら、沿ドニエストルの民族構成は、ルーマニア系=モルドバ系が31.9%、ウクライナ系が28.8%、ロシア系が30.4%であるからである。ちなみに、ここでのモルドバ語は、従来のキリル文字を使っている。
本日はここまで。参考にしたのは通勤時に読んだ「強権と不安の超大国ロシア 旧ソ連諸国から見た光と影」(廣瀬陽子:光文社新書2008年)である。
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