2022年5月29日日曜日

生麦事件(上・下)吉村昭 Ⅰ

先週、学園の図書館に返却した時、吉村昭の生麦事件(上下巻:新潮文庫)を借りた。帰路、読みだしたら止まらなくなり、結局先日の東京行でも読み続け、8割方読破した。

幕末維新史に関しては、それなりの知識を有しているつもりだったが、吉村昭の詳細な記述を読んでさらに理解が深まった。この「生麦事件」は、そもそも島津久光が、斉彬の公武合体政策を推し進めるために、勅使大原重徳の随従として江戸に向かい、徳川慶喜の将軍後見職、松平春嶽の政事総裁職をなんとか認めさせた後の事件である。例の、西郷が無位無官の久光をジゴロ(田舎者)と愚弄した京・江戸への進出の帰路である。(よって、西郷はこの小説では、ほとんど最後まで登場しない。)

タイトルだけ見ると、生麦事件が起こって、薩英戦争になって…と内容が予期できるのだが、実は、長州や幕府、ならびにイギリスなど外国政府を巻き込んだ、「攘夷」について書かれてた本と言っても過言ではない。尊皇攘夷運動は、そもそも周の時代の言葉だが、尊王である水戸の烈公が、「攘夷」を声高に唱え合体したイデオローグで、孝明天皇が「夷狄は嫌いじゃ」と言われたことで、攘夷はゼロ記号化する。孝明天皇は、親幕府的で、当然ながら蘭学・洋学の素養はなく、攘夷に関しては空想的攘夷だと言えよう。それが水戸藩や長州藩、薩摩藩、土佐藩などの江戸留学組に広まり、ゼロ記号となったといえる。このゼロ記号が薩英戦争や下関戦争で痛い目を見た薩摩と長州が、ゼロ記号を捨てるわけだ。

生麦事件は、公武合体派で、斉彬以来の海事防衛の必要性を認識しつつも、攘夷を旨としていなかった久光にとって、災難としか言いようがなかったであろう。実際、この事件後、横浜村の外国人勢力が暴力的報復を実行しようとしており、予定していた宿泊先をキャンセルし、先の宿場町とし、さらに本陣から宿舎をこっそりと移すことに同意もしている。意外に柔軟で高所から物事を見ている。

司馬遼太郎の小説では、久光は斉彬と比較して、暗愚な俗物としているように感じる。決してそのような人物ではなかったのではないかと思われる。確かに西郷という視点で見れば、出自(庶子)からくる呪術的な問題(お由羅の方が正妻の子斉彬に呪いをかけたという話がある。)もあって、藩内の対立(これには大久保利通の一家も絡んでくる)を生んだのは事実である。

この本の第一印象は、吉村昭の詳細な記述故に分かった、島津久光は、なかなかの人物であったということに尽きるのである。

2 件のコメント:

  1. 横浜に住んでた時の職場近くに、事件発生現場のボード、少し離れた場所に慰霊碑と事件を伝承する施設がありました。近隣の小中学生は、歴史の授業でみんな見学に行くとのことでした。まだ知らない事がたくさんあります。。

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  2. 中村君コメントありがとう。いつか訪ねてみたいと思っています。

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