2022年5月30日月曜日

生麦事件(上・下)吉村昭 Ⅱ

JR宝塚線・東西線・学研都市線はどうかしている。今日も帰路、尼崎駅のアクシデントで電車が停まった。Ⅰヶ月で3回目である。ところで、今朝、住道あたりで 生麦事件(上・下)を読み切った。

今回は、意外だった、というか私の不勉強で間違った認識をしていた話も含めて記していきたい。薩英戦争時に、薩摩藩の虎の子の3隻の蒸気船が英軍に拿捕される。この時の責任者は、結局英船に乗り込み、亡命めいた手段に出る。それは、後の外務卿・寺島宗則と著名な実業家。五代友厚で、謎が多い。この2人はかなりの外国通であり、例の結婚式で同席したN氏の著書にもボロクソに書いてあった記憶がある。この3隻の拿捕が薩英戦争開始のきっかけとなっている。

一方、長州ファイブのうち、井上馨と伊藤博文が急遽帰国して、高杉と伊藤が四国連合艦隊へ折衝に行くのだが、途中で攘夷論者を恐れ逃亡していて結局最初だけだった話。井上が瀕死の重傷を負わされるのだが、これも攘夷論者によるものと思っていたが、俗論派によるものだった。このあたりの詳細な話はあまり読んだ記憶がない。さらに、四国連合艦隊との砲撃戦で、以外にも奇兵隊の幹部となっていた山縣有朋が砲撃で戦果をあげていたことも初耳。こういった後々に有名になる人物(当然名前も変わっている)の若かりし頃の話が面白い。

さて、この「生麦事件」全体を通して、かなり詳細な資料をもとに書かれているがゆえに認識を新たにしたこと、それは当時のガバナンスの良さである。幕府の評定はかなり遅いが、薩摩藩などのガバナンスは見事で、様々な書類・報告書が、薩摩・京・江戸、さらには久光のいる地に送られていることだ。勝手な動きは決してしない。上層部のどこまでで決済されるかを見極めながら、いわゆる官僚制がきっちりと引かれている。薩摩藩恐るべしである。こういうガバナンスに、当時の武士階級は慣れていたのであろうし、それが四民平等となってからも、明治の中間管理職としての地位を確立したのであろうと再認識した次第。日本が植民地化しなかった理由の一つに、武力だけではないこういった武士階級の能力があるといえるのではないだろうか。

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