2021年8月15日日曜日

「死生観」は沈黙すべきか。

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立花隆の「知への旅は終わらない」の最後には、自己のがん体験や取材者の死をめぐって考えたことが書かれてある。1980年代後半から1990年代前半にかけて「脳死問題」に取り組んだ時に死の定義について徹底的に考え抜いたとある。臓器移植推進派との議論で、「あなたの死生観はどうなっているのか。」と問われ、虚を突かれ口をつぐんでしまったらしい。この問いにきちんとした答えを持っていないとあらゆる問題群(自殺・安楽死・脳死など)に対して答えようがないと考えるのである。

これらの死に関する問題群について、立花隆は面白い表現をしている。『結局、自己決定権がある場合は、その人の自己決定に従うしかないだろうし、神あるいは運命に決定権がる場合には、それに従うしかないだろうと思います。人の死生観に大きな影響をあたえるのは宗教です。(中略)どの宗教のグループに属するかによって、死生観は異なります。(中略)死後の世界が存在するかどうかというのは、(哲学的&科学的世界観にもとづく無宗教派といったところの)僕にとって解決済みの議論です。死後の世界が存在するかどうかは、個人の情念の世界の問題であって、論理的に考えて正しい答えを出そうとするような世界の問題ではありません。』この後、昨日エントリーしたヴィトゲンシュタインの「語りえないものの前では沈黙しなければならない。」かという言説が出てきて、立花隆個人の死生観は語られていない。

しかし、その後、立花隆は「臨死体験」のNHKの番組で、脳科学の最新の知見から、『死後の世界体験ではなく、死の直後に衰弱した脳が見る夢に近い現象であることを科学的に明らかにした。』『結局、死ぬというのは、夢の世界に入っていくのに近い体験なのだから、いい夢を見ようという気持ちで人間は死んでいくことができるんじゃないか。』と述べている。

…私はブディストであるから、たとえ情念の世界と言われようが、死生観を語ることが出来る。死は、生の延長線上にあるというスタンス(生死不二)だ。死は空仮中・円融の三諦として存在する人間の仮諦(肉体)が滅びるに過ぎない。空である人間の精神は輪廻する。ただ、その世で行った自己省察によって露わになる業(カルマ)を背負い(立花隆のいう)「夢」の世界へ入る。永遠の来世である天国も地獄もない。業に導かれた縁によって、新しい仮諦(肉体)を得た空諦(精神)はまた中諦(精神と肉体の融合)として新しい生を開始する。

…立花隆の調査・考察のうえにたどり着いた「哲学的&科学的世界観にもとづく死生観」に近いもののように思うのだが…。立花氏は、安心しながら夢の世界に入っていったのだろうと信じたい。合掌。

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