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ポルトガルやオランダ、フランスとの海外覇権を競い、インドを手中に収めたイギリスは、インド製の綿製品をヨーロッパにもたらした。この貿易で莫大な儲けを得た。それまでのヨーロッパは毛織物が主であったが、綿製品の需要が爆発的に拡大した。独占的な貿易で儲けいている綿製品輸入業者に意外な敵が現れる。それはイギリス議会である。議会には、旧勢力が多く毛織物業者からの要望を受け、「綿製品輸入禁止法」なるものを可決する。要するに後ろ向きの毛織物業者を守ろうという法律だ。こういう話はあまりメジャーではないが、民主主義というものの本質を突いている。(こういうマイナスの経験値こそが先進国の宿命である。)
さて、窮地に立たされた輸入業者は、原料(綿花)の輸入は禁止されていないのをタテに、貿易業から綿製品生産業へと変身する。ここで、重要なことは、まず起業する資金が莫大に蓄積されていたこと。需要は大きく綿製品を供給すれば必ず売れるという状況であったこと、イギリスのは毛織物工業のスキルがすでに存在していたこと、自由な賃金労働者が多数存在していたことなどの、綿工業成立・発展の条件が揃っていたことである。
なにも技術革新ありきではない。完全に敗北した毛織物業者も綿織物に転換するのは歴史的必然、ここに綿工業の技術革新、機械化を推進した蒸気機関の発明、さらにぺニン山脈の鉄鉱山と炭田が製鉄業を育成して、産業革命が進展するわけだ。ちなみに、当時のヨーロッパにおけるイギリスの哲学は経験論、自然科学の発達を促す素養があった。新技術の発見は、そういう経験論的な実験重視の姿勢にある。
ヒト(エンクロージャー以降、都市には自由な賃金労働者がいた)、モノ(綿工業を発展させた毛織物工業のスキル)、カネ(インドからの綿商品輸入で蓄積された莫大な資本)が揃っていたから、産業革命が起こったのである。
さて、明治初期、岩倉使節団が、イギリスでの見聞の中に、当時のイギリスの労働者の悲惨さが綴られている。日本がこのような状況になることを危惧していたのである。実際、就業時間も無茶苦茶な長時間だったし、就学という概念もないので児童労働は当然。(それ以前も児童労働はあったが、著しく可視化されたといったほうがいいかも。)労働者の平均寿命も15歳(エンゲルスの調査なので?が付くが、かなり早死であったことは間違いない)。繰り返すが、先進国と言うのは、こういうマイナスの経験値の蓄積の代名詞である。
この中からチャーチスト運動や社会主義運動が発生するのは必然のように思われる。ちなみに、イギリスは、これら参政権や社会権の獲得については、段階的でゆっくりと進んでいくのが特徴的だ。大陸のような急進的、革命的な運動にはあまり発展しなかった。
だが、マルクスの言う階級闘争と呼ぶにふさわしい社会的格差は今なおイギリス社会の中に厳然として存在しているわけだ。
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