2020年9月3日木曜日

冒涜の自由?

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フランスのマクロン大統領が、2015年の仏週刊誌シャルリー・エブド本社襲撃事件の公判開始に合わせ、訪問先のレバノンで次のように発言したそうだ。「報道の自由があり、大統領は編集の決定に判断を下さない。」「(会員制交流サイトを例に挙げ)表現の自由には憎悪を唱えないようにする義務もあるが、風刺は憎悪ではない。」と述べた。https://www.sankei.com/world/news/200902/wor2009020013-n1.html

この記事のタイトル「フランスには冒涜する自由がある」ーマクロン大統領、ムハンマド風刺画再掲載でーは、センセーショナルなものになっている。実際、マクロンは「冒涜」とは言っていない。「(表現の自由には憎悪を唱えないようにする義務があるが)風刺は憎悪ではない。」と言っている。風刺とは、批判対象に対して憤り(怒り)が根本動機としてあるのだが、それを抑制して表現するという態度であるという。うーん。「風刺は憎悪ではない」というマクロンの言は、「(この風刺画は)憎悪が根本動機にあるが抑制されているので100%イコールではない。」というのが正しい解釈であろう。言葉の定義からみて、厳密にはおかしい言だと私は思う。

さらに、冒涜とは「崇高なものや神聖なもの、または大切なものを貶める行為・発言」である。これは完全に憎悪100%以上というニュアンスである。したがって、共同通信のこのタイトル「フランスには冒涜する自由がある」は、センセーショナルに書き換えられており、正しい報道とは言えないのではないか。
なにかとマスコミの偏向性が話題になっているが、多くの読者がマクロンの言を誤って捉えてしまうだろう。彼は「風刺」を擁護はしているけれど、そんな言葉を吐いていない。この記事を読んで、マスコミの怖さを改めて感じた次第。

さて、この2005年にデンマークで公開され問題となった風刺画については、ウィキで実際の風刺画を見ることができる。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/7/75/Jyllands-Posten-pg3-article-in-Sept-30-2005-edition-of-KulturWeekend-entitled-Muhammeds-ansigt.png

イタリア生活が長かった塾のJ先生に聞くと、フランスはその本場、イタリアでも風刺の土壌があるらしい。これらは、やはりキリスト教世界で、民主主義を血で勝ち取り、表現の自由を崇高な理念としている欧米の風土で生まれたもののようだ。

…マレーシアに3年半住んでいた私は、どうしてムスリムの味方になる。ムハンマドを風刺することは、ムハンマド・ムスリムへの憎悪を根本にしている。たとえ抑制したものであっても、ムスリムからは憎悪の変形としか映らないだろう。そして、それは冒涜以外の何物でもない。このような風刺画を描く必要性があるのだろうか。アジアの多神教の風土に住む日本人にはその必要性がわかりかねる。キリスト教徒の偏狭性を感じてしまうのだ。ブディスト、特に大乗仏教徒は、「平等大慧」という教義を持っている。全ての人は仏界(仏になる根本原因)を内在しているという意味だ。そこに「冒涜」という悪意の概念は生まれない。

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