2020年8月5日水曜日

スキゾ・キッズ考

1984年頃といえば、私は36才、工業高校で教師をしていた頃だ。この年に浅田彰の「逃走論~スキゾ・キッズの冒険」が書かれ、私も読んだ。浅田彰は、ドゥルーズ=ガタリの思想を日本に紹介したわけだが、当時はまだまだ違和感が強かった。社会におけるコードはそれなりにきちっとしていたわけだ。それが、この頃から業界用語の登校拒否という語が不登校という語に変化した。小事だが、コードのベクトルの角度が大きく変化したように思う。

同じ年に、立花隆の「文明の逆説」も出た。この本の方が私には衝撃的だった。文明が進めば進むほど実は滅亡に向かっていることを記している名著だ。親の子殺し、子の親殺しという近親間で傷つけあう事件の続発を指摘し、他の動物には見られない。あるとすれば動物園の折に閉じ込められている動物のみ、といったショッキングな話もある。それまでの、文明は進歩するものといったヘーゲル的な進歩史観の常識が完全に覆される話でいっぱいだった。

2020年の今、振り返ってみると、両著は、奇妙な一致を見せている。私が教師として出発した1980年頃は、ドゥルーズ的に言えば、それなりのコードがあったが、それが徐々にリゾーム化していった。神・王・父といった円錐型のコードが資本主義的なクラインの壺化しても、大きな変化はなかった。社会におけるコードは徐々に、ちょっとした言葉の変化などでわかる程度に変化してきた。立花隆は、文明の逆説の中で、最も弱いところから文明の破綻が始まる旨を説いていた。それは子供である。それまでのエディプスの三角形が大きく崩れ、子供へのと献身と無上の愛を降り注ぐ母親は、自分の欲求を満足させたいプラスチック製のママになり、社会常識を伝える役割は父親は母親化して自分の使命を果たそうとしない。この記述は逃走論にあったと思う。私は、子供の運動会の姿をビデオに録るために早朝から陣取り合戦をする父親の報道を見て、社会コードの変化を感じ取った。こうして、怒られずに育った(=パラノな生き方を教わらなかった)スキゾ・キッズはそれまでの社会コードを無意識に破壊してきたように思う。

この流れを後押ししたのは、間違いなくグローバル化による、格差社会である。動物園にいる動物のように、ストレスに苛まれたスキゾ・キッズが拡大しているように思う。

この感覚は、私が三崎高校・公営塾で働いているから生まれた思索ではないことを明記しておく。ともかくも、この両著の予言は当たっている。30年以上前の本だが、今こそ、読む価値があるだろうと思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿