2019年11月9日土曜日

アメリカのキリスト教の話2

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アメリカのキリスト教について、橋爪・大澤両社会学者の「アメリカ」書評の続きをエントリーしたい。アメリカ人とは一般的に「文字どおりキリスト教を本気で信じている人々」と、とらえないと理解できないと大澤氏が言っており、橋爪氏も同意している。

たしかに学校教育で進化論の是非を問う裁判が行われたり、ユダヤ教徒にイエスを救世主として認めさせることを最終目的としているが故にイスラエルを支援していたりと、そういう事例はアメリカに多い。この本気で信じていることゆえに教会と政府が緊張することもある。特に非暴力を身上とするクウェーカーやエホバの証人などは兵役拒否で有名。セブンズデー・アドベンチストも同様に兵役拒否をするし菜食主義でも有名である。この宗派のケロッグ博士が、菜食主義者の栄養が偏らないようにシリアルを開発した。ケロッグのコーンフレークの始まりである。こういう蘊蓄は面白い。

カルヴァン派とクウェーカーが対立し、クウェーカーのウィリアム=ペンがペンシルベニアを拓く。ここは、宗教的寛容が州是である、と言うとき、われわれ日本人が肝にめいじておかなければならないのは、信仰は真理にまつわる問題であって、決して趣味の問題ではない、ということだ。日本人は、宗教的寛容というと、カレーが好きな人とラーメンが好きな人がいる。それぞれが好きなものを食べればいいくらいに考えるが、これは違う。真理と真理のぶつかりあいなのである。真理であるからにはそれを押しつける必要があるが、それをおいて寛容であらねばならない、つまり二律背反に近い「他なる真理を認めてはならず、かつ認めなくてはならない。」という凄い緊張状態にあるわけだ。

信仰が趣味の問題ではないということをさらに深く追及すると、信仰は選べないということに帰着する。それは自分の信仰がクウェーカーであろうとバブティストであろうと神の意志であり、神に与えられていると見るのが正しい。この感覚は日本の仏教の宗旨とは違う。あくまで神のコミットメントによるものである。キリスト教やイスラム教、ユダヤ教の一神教の信仰とは、信仰の理由がないわけだ。

アメリカが自由と民主主義を広げることを国是として、パクス=アメリカーナを推進していた時、何故押し付けるのかという感覚は、したがって間違っていると両氏は言う。アメリカ人の側に立てば、押し付けているわけではなく、それが真理であると信じているからなのである。

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