2018年3月31日土曜日

Y先生の退職の日に。

http://www.homemate-research-high-
school.com/dtl/00000000000000
365049/imagelist/
前々任校で相方だったY先生が声帯を取る手術をされ、私がマレーシアに来る直前に見舞いに行った。ちょうど2年前のことである。Y先生とは同じ学年であるだけでなく、同じ3月それも20日以降に生まれている。(私がほんの何日か早い。)同年代で最も遅く還暦を迎えたわけだ。2年前は、現場復帰を目差しておられたが、前々任校にいた弟分のU先生も昨年4月に他校へ転勤してしまい、復帰できたのかわからないままだった。昨日、おそるおそるメールをしてみたら、昨年7月に現場復帰を果たされていた。機械を使っての音声で教鞭をとっておられたらしい。その技術については、入院先で聞かされていた。凄い精神力だ。実に嬉しい。

ところで、昨日は3月30日金曜日。年度末の最後の平日だった。Y先生のメールには、「本日付で退職いたしました。」とあった。私は、そんな日本的な暦も忘れていたのだった。私にとっては、スクールホリデーの1日でしかなかったのだ。まさに偶然だが、昨日メールして本当によかったと思う。

https://blogs.yahoo.co.jp/
tarou_naoki/29881548.html
Y先生と私は、休み時間になると、よく前々任校の校門を出て、タバコをふかしに行った。様々な校内の問題についても、多くを語る必要なかった。阿吽の呼吸だった。当時、私とY先生は教務の仕事をしていた。当時の校長、教頭、教務部長の三者は、よく意見が対立がして、入試の際は2人で間に入って調整していたのだった。結局私は、そういう調整はともかく、緻密な教務の仕事には不向きで、後に国際交流の仕事についたが、Y先生はそのまま教務に残り、やりたかった担任も出来ないままに教務部長の大役を何年も果たすことになった。

お互いそもそも生活指導畑で、私が前々任校の生指部長だった時、Y先生はO高校の生指部長だった。能力の高い人だったから、教務の仕事もこなせたのだと思うが、私はその後国際交流で好きなことをし、さらに前任校に転勤、最後の担任3年間をさせてもらえ、おまけに今はマレーシアでさらに好きな事をさせてもらっている。たが、Y先生はずっと前任校で重責を担っておられ、病に倒れられたのだ。ほんと申し訳なく思う。

メールには、退職までに現場復帰がかなったことに対しての喜びが感じられた。それまでが大変だったと思うし、現場復帰後も大変だったと思う。志の強さが、それを可能にしたに違いない。さすがY先生なのだ。サムライなのである。相方としては、心から敬服するしかない。メールでは、私が一時帰国する1年後に再会を誓った。あの頃のように、何も言わずとも阿吽でわかりあえるような気がする。

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