今朝の毎日新聞の朝刊「時代の風」に、公開講座でお話を伺った京大の山極寿一先生のコラムが載っていた。多文化共生という問題について、示唆に富む内容だったので紹介しておきたい。
山極先生が子供の頃「変なガイジン」という言葉が流行したことがある。日本語や大阪弁のような地方の言葉を流暢に話すのに、しぐさは日本人の常識的ではないという外国人のことだった。
御自身も30年前からアフリカでゴリラの調査をし始めたとき、現地では変なガイジンだった。と、いうより、スワヒリ語では、変な「ムズング」(ガイジンにあたる言葉で、もともと白人に対して使われていたようだ。我々がアジア系の人々にガイジンという言葉を使わないように、スワヒリ語でも他国籍の黒人には使わない。)だった。現地の言い回しや表現も交えてスワヒリ語で話すと、みんな目を丸くしたそうだ。しかも彼らにとって珍しくも高い価値もないゴリラを見たいだけというのだから、ますます変なムズングだったわけだ。
さらに、山極先生は、野生のゴリラを観察するために、ゴリラのしぐさや声をまねて、ゴリラのような振る舞いをすることで、群れに溶け込むことに成功する。子供ゴリラと取っ組み合って遊び、おばさんゴリラにからかわれ、オスゴリラ隣り合って昼寝する。ゴリラからは「変なゴリラ」と思われていたと思う、とも。
今では、多くの外国人が日本に暮らすようになり、変な言葉も変なしぐさも、あまり気にならなくなった。もう「変なガイジン」は死語になった。それは私たちが文化の枠を超えて、人間として共有できる作法に敏感になったからだと、山極先生は言われる。日本人の作法を逸脱するガイジンたちの行動を通して、私たちは外から自分たちの文化をながめ、その欠点に気がつくようになったのである。トイレは水洗になり、男女の別が常識になった。妻の前を威張って歩く夫の姿を見かけなくなり、レディーファーストが励行されるようになった。ひょっとしたら、日本人が世界の隅々に出かけていって多様な文化を肌で知り、自分が「変なガイジン」になった経験を通して、人間の作法を考えることになったのかもしれない。
一歩進んで、人間を超えて生きる作法にも目を向けて欲しいと山極先生は訴える。ゴリラの母性の強さとあっさりした子離れに感心した。派手な身振りでメスに求愛するオスも、決して強制的にメスを意のままにすることはない。そこには自然の作法とでもいうようなエチケットが存在する。これらを現代の暮らしの中で再検討することが、今求められている、と。
2014年5月25日日曜日
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