2014年5月11日日曜日

沢木耕太郎ポーカー・フェースⅡ

沢木耕太郎の「ポーカー・フェース」を先日読み終えた。期待通りの素晴らしいエッセイだった。「あやとり」の糸が、どんどん形を変え、最後にそれぞれのエッセイの「タイトル」に帰着していく。まったくもって素晴らしい作品群だ。

最後に『沖ゆく船を見送って』という作品がある。次に書く内容は沢木耕太郎が引用している部分なので、これから作品を読む方にも期待をいだかせるだけだと思うので、ちょっとエントリーしておきたい。シーナ・アイエンガーの『選択の科学』という本からの引用である。

細長いガラス瓶にラットを一匹ずつ入れて水で満たし、泳ぐか溺れるかしかないという状況を作り出す。すると体力的には同じはずのラットが、固体によって、わずか15分で諦めるようにして溺れてしまうものと、60時間も泳ぎ続けてからようやく溺れるものとに別れた。その差はどうして生まれたのか?
次に、全てのラットを捕まえては水噴射を浴びせ、そこから助け上げてはケージに戻すということを繰り返した。すると、今度は水で満たされたガラス瓶の中に入れられても、15分で諦めるような行動を取るラットが一匹もいなくなり、すべてが力の限り泳ぎ続けるようになったという。それは、ラットでさえ、困難を切り抜けた経験を持つと、自分の力で状況をなんとかしようという「意思」が生まれることを意味しているというのだ。<私たちが「選択」と呼んでいるものは、自分自身や、自分の置かれた環境を、自分の力で変える能力のことだ。選択するためには、まず「自分の力で変えられる」という認識を持たなくてはならない。例の実験のラットが、疲労が募るなか、これといって逃れる方法もないのに泳ぎ続けたのは、必死の努力を通じて手に入れた(と信じていた)自由を、前に味わっていたからこそだ。>(櫻井裕子訳)

沢木は、ここからどのような教訓を見出すかは自由だが…として、ある視点をしめしている。私はこんなことを考えた。ピラミッドを作るのに、底辺をつくることが重要か、天辺をつくることが重要かということである。私は天辺だと思っている。

実は私は高校時は、校外で野外活動のサークルに入っていた。高校生としては、アホほどキャンプファイヤーの経験を積んだ。教師になり、赴任した商業高校では、生徒会やクラスのリーダー育成のためのキャンプを実施していた。その指導を意気に感じて全力でやっていた。私の指導するキャンプファイヤーは、かなり完成度の高いものであった。そこまでやるか、というほど練習を生徒に課した。先輩からは、もっと生徒の自主性を重んじてはどうか?と言われたことがある。若輩としては、大いに憤慨したものだ。最高のものを生徒に経験させてから、自主性を生かして自分たちのものをつくらないと、いいものはできない。と私は主張した。要するに、ピラミッドの天辺をつくり、そのあと底辺をつくるべきだ、と言ったのだ。安易に放り出して、自主性の名の下に、出来たものが悪くても納得することは誰でも出来る、今でも私はそう思っている。

2 件のコメント:

  1. yukimi takahama2014年5月13日 7:08

    ご無沙汰しております。
    青年海外協力隊の車内広告を見て、
    JICAの研修に参加したことを思い出し、
    先生が懐かしくなり、久々訪問させていただいた次第です。

    毎日ブログを更新されていて、
    お忙しい中にも一貫して記録を残す
    先生の根気強さに尊敬の念を抱きます。

    私も社会人4年目を迎え、
    ある程度責任ある立場で仕事をしているので、毎日仕事漬けです。
    いつか世界で働きたいなという、
    淡い夢を抱いて、平凡な日々を淡々と。

    また、ブログ拝見させていただきますね。

    ブログに全く関係ないコメントで、すみませんm(_ _)m

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    1. yukimi takahama君、ひさしぶり。コメントありがとう。社会人も4年目か。私のブログも、なんやかんやと続いているよね。ほぼ、生活の一部となってしまった。(笑)
      「淡い夢を抱いて、平凡な日々を淡々と」というコトバ、いいね。さすが国語科OGだ。また、コメントしてね。

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