佐藤優の「新約聖書Ⅰ」を読んだ。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書が収められている。もちろん、日本語訳福音書だけでなく著者による各福音書の解説と、「私の聖書論Ⅰ」という小論が収められている。
「序文にかえて」の中で、佐藤優は『標準的な日本人にとって、キリスト教について知るという目的のためには、新約聖書を通読すれば十分であると私は考える。』と述べているが、私は旧約聖書というベースがやはり必要ではないかと思う。佐藤優に反論するのは傲慢以外の何物ではないが、「日本人に贈る聖書物語」を読んだ後で、本書に接した身としては、そういう感想をもたざるを得ない。
各福音書に登場する、ヨハネの洗礼の箇所にしても、旧約の伝統的な預言者的なるものの理解がなければ分かりにくいのだ。圧倒的に日本人の立つところと、違いすぎる。そう考えてしまうのだ。反対に、「日本人に贈る聖書物語」を読んだ上で、この4つの福音書を読むと、うまくミックスして聖書の内容を止揚して著述されていることがわかるのだ。
今日、世界史Bで宗教改革の授業をしていたのだけれど、ルターの免罪符批判など、福音書に出てくる金持ちの青年とイエスの対話を引くと、生徒に解り易く説明できたりする。ローマを聖書から批判することは可能だとする神学者ルターの面目躍如というところだ。
本当は、各福音書の解説や巻末の「私の聖書論Ⅰ」について書きたいのだけれど、とても1回のエントリーでは書ききれない。物凄く面白かった。佐藤優の凄さは、単に宗教論を語るのではなく、現実の社会においての深い社会科学的な考察が同時に行われていることだと思う。神学をここまで開くのは、なみなみならぬ知識と構想力がないと出来ない。あらためてそれを感じた一冊だった。
2013年11月7日木曜日
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